08/02/16 22:46:06 Oex239we
>>1
(・ω・`)乙 これは乙じゃなくてポニーテールなんだからね!
3:マンセー名無しさん
08/02/17 18:38:37 ihz7Pu93
良スレですね。このスレを通してみんなで見識深められたらいいですね。
うちのじいちゃんも二度出兵したらしく、またまじめなじいちゃんだったようで
青年期に毎日書いた日記があるらしいのでまた調べてみたいと思います。じいち
ゃんは残念ながらもう他界しましたが・・・
4:マンセー名無しさん
08/02/20 19:37:52 Bck56Xdo
保守
壱スレにぼた餅がたびたび出てくるので自作してみた。
市販のものは確かに洗練された上品な味がするのだが、子供の時に食べた味とはどこか違う。
自作のぼた餅は大きさも形も不揃いだったが、なんとか「あの味」のようなものをつくる事ができた。
母がつくり、祖母がつくり、この国の懐に抱かれて伝えられてきたそれぞれの味…文化と伝統。
幾多の若者達が守るために命をかけた「ふるさと」を、次の世代に残す番が今自分に回ってきている様なのだが、
爺様婆様達には遠く及ばず申し訳ない限りであります。
我らが父祖に敬意を表して。
5:マンセー名無しさん
08/02/20 20:43:01 ZYx3erqr
こちらもよろしく
あなたのおじい様の戦争体験を教えて その17
スレリンク(army板)
6:791 ◆9zatwGbxuw
08/02/24 13:34:41 r3u1YaMc
あぁ、書き始める前に前スレが落ちてしまった……
トリップが正しいか確認の後、40編目投下開始します。
7:791 ◆9zatwGbxuw
08/02/24 13:35:22 r3u1YaMc
日ソ戦による全満邦人の惨劇(1/3)
開拓移民団の惨劇
敗戦による在満邦人は筆舌に尽きせぬ惨劇が全満各地に起りましたが開拓団の人達は永
住の地として北満東満と国境近くそして街から遠く酷寒と時には匪賊の恐怖と戦い原野を
開拓して汗と脂を流して得た財産を一夜にして失いその上柱と頼む主人を招集で連れてい
かれ老人子供を抱えての引揚げ途中略奪と暴行酷寒そして飢餓の四重苦にさいなまれ、
それがため疲労栄養失調から来る病気と闘い山を越え湿地に足を取られ恐怖におののきな
がら幼子を背負い又は手を引き僅かばかりの財産を持って東満へ南満へと集まり途中根も
力も尽き果て思い余って子供を棄て満人に呉れて辛うじて復員出来たと云う。
二十七万人(中国開拓義勇軍を含む)二十八人万人。三分ノ一の九万人がソ連軍又は
反乱軍匪賊土匪の餌食となった。
内訳は、
戦死自決 一万一千人
病 没 六万七千人
消息不明 一万一千人
旧満州に残存した者 一千人(現地妻養子)
合計 九万人 (復員局調)
8:791 ◆9zatwGbxuw
08/02/24 13:35:57 r3u1YaMc
日ソ戦による全満邦人の惨劇(2/3)
最も犠牲者が多かった開拓団は左記に依る。
一、東京開拓団荏原郷(九八三人)(興安省王爺廟)
避難途中病気土匪に襲撃され自殺八五三人が死亡復員百三十人
一、第四次哈達河開拓団
虎林線東海駅北に二粁興凱湖に近くソ連満国境関東全県四國九州北海道その他四県
からなる千余人を?出開戦と同時に軍籍にある者全員招集され老幼男女のみ残され
避難途中三百余名ソ連に追われ満軍反乱んも為敵弾に倒れる者自殺する者残余の者
も脱出不可能の為本体全員四百六十五人遂に帰らなかった招集された者ソ連から
復員した者も行方は定かでない。
一、大青森郷開拓団(黒河省奇克県)孫呉國境近く。小興安嶺山中を難行中団員四七一
の中生死不明一四四名死亡一五一人生存一七六人
一、第八次大泉テ開拓団(浜江省賓県)福井富山県送出満軍反乱軍と暴民の襲撃を受け
五八四人の中二五三人死亡
一、第十三次来民開拓団(吉林省扶余県)熊本県縒り送出、匪賊暴民に襲われ二七五人
全員自殺一名助かり脱出
一、第二次千振開拓団(三江省樺川県)宮城県送出婦女子八○名暴民に襲われ飛行場
地下格納庫に避難したが脱出出来ず全員劇薬自殺
9:791 ◆9zatwGbxuw
08/02/24 13:36:23 r3u1YaMc
日ソ戦による全満邦人の惨劇(3/3)
一、第三次瑞穂村開拓団(北安省綏稜県)
幹部が治安維持の為出勤中団員家族四九五人全員劇薬自殺
一、第四次城子河開拓団(吉林省舒蘭県)
五十三人自殺、二十人病死
一、第十次埴科開拓団(東安省宝清県)
団員二五四人避難中主力二二八人ソ連軍の砲撃を受け二二一人死亡
一、第十三次高橋郷開拓団(浜江省蘭西県)
土匪の襲撃により三八○人中二九九人が呼蘭河に投身自殺
一、第十三次高見開拓団(三江省樺川県)
団員主力三三三人中ハルピンに辿りついた者六四名、途中落伍消息不明二六六名。
地区の婦人三三名、男一名及び他地区より合流した七一名、計一〇五名脱出できず
劇薬自殺。
10:791 ◆9zatwGbxuw
08/02/24 13:46:52 r3u1YaMc
あとがき
結婚して六ヶ月突如の招集令状を振り出しに、人生が余りにも狂った。生死の境を通り
抜けて生還し、舞鶴上陸。暖い肉親に迎えられた時。私の人生が蘇ったのでした。帰らな
かった戦友諸君には済まないと思っていますが、現在は親思いの長男と父母思ひの素直な
嫁にめぐまれ、二人の可愛い孫に囲まれた日々を過ごして居ります。過去を顧み、平成と
いう名のもとに平和が何時までもと願って居ります。
平成元年 一月九日
箏葺 弓六
11:791 ◆9zatwGbxuw
08/02/24 14:04:01 r3u1YaMc
追加として、この冊子に挟まれた爺様の年譜表。その最後の一文を紹介させていただきます。
------------------------------------------------------------------------------
「満州・シベリアの思ひ出」を発刊するにあたり、尊敬する父(祖父)に
○○(長男)、○(妻)、○○(孫)、○○(孫)が贈ります。
------------------------------------------------------------------------------
最後に、ここまで爺様の文章を読んでいただいた皆様に、俺から感謝の念を。
今までありがとうございました、この芯の強い爺様の記録を多くの人に知ってもらう事が、俺の
義務だと思っていました。皆様のおかげで、その目的を達成できました。今はほっとしています。
そして、世の中にまだいるであろう、名も知らぬ爺様やその戦友達に後世の者として敬意と感謝と
哀悼の念を。
いずれ靖国に行き、この冊子の事を思い浮かべながら頭を垂れてこようと思っています。
それでは、一月あまりお付き合いいただきありがとうございました。
これにて投下全終了いたします。ではでは
12:マンセー名無しさん
08/02/24 18:29:29 x48Dy7+B
791氏 お疲れ様でした。
366氏の爺さんも友軍が来てくれたと、
きっと喜んでくれてるんじゃないでしょうか。
とにかく本当にお疲れ様でした。
13:マンセー名無しさん
08/02/24 18:30:44 gqY1BbbH
>>791氏
いつもお疲れさまです。
感想をうまく言葉にする事が出来ず少々悔しいのですが、
貴重な資料を掲載頂き、ありがとうございました。多くの感謝を。
やっとアク禁解除。
最終回に間に合って良かった。
昨日、仕事帰りに靖国リベンジ行ってきました。途中までは作法の通りだったと思うけど、
お祈りの時の手順を間違えた。orz ちゃんとできるまでリベンジを続けよう。できてもたまには行こう。
それはそうと、あの「作法」って完璧にやると非常に格好いいものなのね。見ていて思った。
14:備前 有縁通 ◆5/7mhL.nO6
08/02/24 19:05:27 J3AMhKjp
>>13
>あの「作法」って完璧にやると非常に格好いいものなのね
オマエにとって、靖国参りは自分のカッコよさを
他人にヒケラカス為の趣味にすぎないということか?
大切なのは作法や格好ではなく「心」では無いのか?
日本人は外見ばかり気にしてで「心」がないよな。
だから、何度謝っても認めてもらえないんだよ。
反省しとけ。
15:マンセー名無しさん
08/02/24 19:11:09 ufVa3xea
どういう奇形理論で見てかっこいいという感想が
ひけらかす趣味になるんだ?
ギャハハハハハハ~w
16:マンセー名無しさん
08/02/24 19:11:18 wQv9iIdl
日本人の接客作法によく韓国人は感心する
だがその後で「心がこもってない」とケチをつける
心が作法に現れるとは考えないらしい。
韓国人はマナーもないし心もない。
田麗玉「悲しい日本人」参照
17:マンセー名無しさん
08/02/24 19:11:33 Es0x5ABO
>>14
奇形、揚げ足取りか?
>何度謝っても認めてもらえないんだよ。
お前に認めてもらう必要ないだろ。イラクとイランの区別もつかん
頭の悪いお前に言っても無駄だが、ベトナムで謝りすらしない朝鮮人が
世界で認められないのわかってね。
18:マンセー名無しさん
08/02/24 19:25:58 L30srhnH
>>17
相手すんな、そして上げるな、この荒らしが。
19:マンセー名無しさん
08/02/24 19:27:28 vPbNjbEK
>>16
たとえば茶道などでも、お客様を最高にもてなそうとする心が
無駄のない洗練された動作と手順とを求め、
その結果がさまざまなしきたりとなって確立されてきた、
それと同じ事なのにね。
20:マンセー名無しさん
08/02/24 19:30:36 gqY1BbbH
>>14
場所が場所なのでスルーさせて貰う。
21:備前 有縁通 ◆5/7mhL.nO6
08/02/24 19:34:31 J3AMhKjp
なに、カッコつけてんだ、タコ!
返す言葉が無いだけだろw
22:マンセー名無しさん
08/02/24 19:36:03 aaqou9X5
確かに意味不明な奇形理論にまともに返す言葉はないよなあw
どういう思考回路を経てひけらかす趣味とやらに変換されるんだかw
ギャハハハハハ~w
23:791 ◆9zatwGbxuw
08/02/25 00:04:14 m1a4uB/l
>14
実は弓道あたりでも二礼二拍一礼したりします、自然に背筋を伸ばして行えば
かなり見栄えがしますよ。あまり力まないように、自然体が基本です。
ご神前や英霊にキリッっとしたところを見せて差し上げましょう、それは王道たる
敬意の表し方です。作法を守ろうとする意識、見栄えよく振舞おうとする意識も又、
奉ずべき価値ある心なのですよ。
24:791 ◆9zatwGbxuw
08/02/25 02:35:56 m1a4uB/l
うあ……
>13の間違いでしたorz
25:マンセー名無しさん
08/02/25 10:51:16 3tcOhtrP
流れ豚切ってスマソ
既出だったら恐縮ですが、前スレのまとめサイトとか作る予定の方いらっしゃいますか?
せっかくの体験談&名言たちを埋もれてしまうのはもったいない。
26:マンセー名無しさん
08/02/25 11:03:45 vGsc4UH9
>>23のレスを見た時、なんという賢者ぶり、と思ったw
27:八咫烏 ◆cPmkHzc4Fc
08/02/25 14:57:22 jiyCyQpT
ありがとうございました。>791 ◆9zatwGbxuwさん
28:マンセー名無しさん
08/02/25 15:00:21 vpkvq+Np
終わっちまった・・・寂しいな。
しかし取り敢えず今まで乙。
29:791 ◆9zatwGbxuw
08/02/25 18:48:20 m1a4uB/l
えーと、間の抜けたところを見せてしまったし、乙も頂いてますので、爺様と会話
した時の事とかを思い出しつつ。
○前スレ808-809『大荒溝輸送隊顛末記』の辺りの事
> 駅からはるか後方の平地にソ連軍の車両部隊と戦車部隊が何百と並んで居た。
> 武装解除、未練気も無く兵器を捨てる。
この戦闘車両の群れ、どうも大部分がアメリカ製だったようです。
「ソ連軍はアメリカのトラックに乗っていて、これが頑丈で故障もなく良く走るんだ。
こっちの車両はすぐ故障してねー、あまりソ連製の車両は見なかった」
爺様は整備隊所属だったという事もあってか、その辺りが印象に残ってたようでした。
会話中何度か、苦笑っぽい笑顔でそのことを繰り返しておられました。
この文中に木炭トラックをも軍で使用していたとありますので……差は歴然としていた
のでしょうね。日本軍、実は大陸でもアメリカの工業力に痛い目に逢わされていたようです。
アメリカからソ連へ車両のリースがあったのは自分も知っていましたが、爺様達はその威力
を満州とシベリアで体験していたのですね。
とにかく、物量の差を目の当たりにして。こりゃ駄目だ、どうにもならない。と結論せざるを得
なかった事は強調されてました。「そりゃ、悔しい話ですね」「いやいや、辛いとか悔しいとか今更
言ってもしょうがないから、笑い話とでも思ってくれよ」との事でした。
○軍隊用語について
文中に良く「ヨ隊」とか「ミ隊」とか出てくるのですが、これが俺も解りません。何を意味する
単語なのでしょうか、どなたかご存知ありませんか?
○使った仮名について
『箏葺 弓六(ことぶき きゅうろく)』必要があって作った仮名でしたが、その後はコピペする
だけでも恥ずかしさを覚えるネーミングでした。まとめサイトを作って爺様の文章を載せていた
だけるなら、この名前に関しては変更を検討していただくのが賢明かも知れません(^^;
ちなみに、箏葺>寿>寿発動機、弓六>九六>九六艦戦でした。以前、お遊びで考えた名前
をさらにいじくった感じです。他にも「ふがく もくせい」とか「はやて ほまれ」とか、あぁ馬鹿くさい。
以上、思い出した会話と、俺自身の馬鹿っぷり晒しでした。ではでは
30:マンセー名無しさん
08/02/28 15:03:21 1SxbXuCP
ほす
31:マンセー名無しさん
08/03/02 12:52:48 0myfOVC2
一応、保守
32:マンセー名無しさん
08/03/07 20:16:40 NTd85S8k
ほすするけどさびしいな
33:マンセー名無しさん
08/03/09 17:54:36 OXZxfLw+
2,3年前、他の板でUPしたもの。半島ネタなし。
前回、割愛した部分はすべて追加するので結構長文になる。
それでもよかったら俺がやるけど。
ちなみに本はこれ↓
URLリンク(www.uploda.net)
34:マンセー名無しさん
08/03/10 12:07:42 80vxfqMQ
バチコーイ
気長に待ってるぜ
35:33
08/03/10 20:28:29 bZeCq2lK
気長にやるので、みなさんよろしく。
連浦―マラン弥次喜多空輸記
中 尾 周 作
昭和19年2月末日編成を完了した我が36教育飛行隊は東部ジャワ・マラン飛行場
に前進するよう命ぜられました。編成地の北朝鮮の連浦から約8,000㎞当時の私達
の常識では大変な移動作戦で、非常な緊張感を覚えました。
航空部隊は空輸、整備隊その他の支援部隊は輸送船で移動するのです。私はそ
の前年、昭和18年12月当時の明野陸軍飛行学校乙種学生の課程を卒業して部隊に
着任したばかりの新品少尉です。(飛行時間約200時間)勿論外地の航法の経験など
まるでありません。その私が編隊長として、当時の満州奉天鉄西飛行場に出向いて、
二式単座高等練習機七機を受領して、ジャワ島マランに空輸するよう命令を受けまし
た。同年3月中旬私は、加藤曹長、吉野軍曹、村上軍曹、鴨山軍曹、青山軍曹、脇浜
軍曹、和田伍長、田志兵長等を連れて奉天航空廠に赴いて飛行機受領に当りました。
当時の奉天航空廠の傍に日本の中島飛行機の分家といわれた、満州飛行機--通
称:満飛(マンピ)と云われました--で、九七戦を改造した二式単高練を大車輪で製
作していたのです。
当時の陸軍航空当局は、戦局の要請に応えて操縦者、特に戦斗操縦者の養成に
力を入れて、教育飛行隊を大増設していたのです。そしてその部隊を燃料入手の容
易な南方諸地域に配置した訳です。
36:33
08/03/10 20:32:34 bZeCq2lK
奉天の鉄西飛行場ではそれ等のパイロットの飛行機受領者で大混雑して居りまし
た。満飛の生産ラインから出来て来る飛行機は前記の待ち構えたパイロットに渡され
て、試験飛行をして、これでよしと云うことになると夫々の任地に空輸するのです。とこ
ろが出来て来る二式単高練には色々の問題点がありました。当時の物資不足の状況
で、特に特殊合金の極度の不足の為、エンヂンが極めて不安定なのです。新製品の
二式単高練を受領して試験飛行して驚いた事は、新製品であるのに拘らず滑油消費
量が非常に多い事です。フィルターには金屑が多量に発見されます。もともとパイロッ
ト仲間に満飛製の飛行機は人気がありませんでしたが、これ程とは思いませんでした。
噂では、気の短い編隊長が18機の二式単高練を受領して台湾に空輸したところ、
まともに目的地に到着したのは2機丈けだった、等と云われていました。私はこの飛
行機を安全確実にマラン飛行場まで空輸しなければなりません。特に入念に試験飛
行をして、完全な飛行機を受領するよう心掛けました。航空廠は一定のノルマを果た
ねばなりませんから、内心あまり文句を云わずさっさと持って行けという態度です。航
空廠の少佐からお前の部隊は文句が多過ぎると叱られた事もありましたが、マラン飛行場迄の8,000㎞の航程を考えますと簡単に妥協は出来ません。
とに角、何とか良さそうな飛行機を受領して編成地の連浦飛行場に帰着したのは4
月中旬だったと思います。部隊長編隊は九々高練数機で、既にマランに向けて出発し
て居りました。
37:33
08/03/10 20:39:20 bZeCq2lK
連浦で更に入念に整備をして4月20日頃出発、南朝鮮の大邱経由太刀洗に向い
ました。そのメンバーは次の通りです。中尾少尉、加藤曹長、鴨山軍曹、村上軍曹、
青山軍曹、和田伍長、田志兵長。
春とは云え朝鮮の山々は雪を頂いて荒涼たるものです。大邱飛行場では燃料滑油
の補給後直ぐ太刀洗に向けて飛び立ちました。そこで食べたリンゴの歯にしみた冷た
さが記憶にあります。玄界灘を飛び越えて北九州に入りますと全くの春です。黄色い
菜の花が目にしみます。先刻の荒涼とした情景に較べ全くソフトな感じで、あゝやっぱ
り内地だなあと感じました。
太刀洗に着いて気になるのはやはり飛行機の滑油消費量です。二式単高練の整
備上のデータ等は忘れましたが、約4時間位飛行しますと滑油タンクは殆ど空っぽに
なるのです。通常の航空機の航続時間は、燃料の消費量が基礎になるのですがこの
飛行機は滑油の消費量が基礎にならざるを得ません。点火栓は飛行の度毎にベタベ
タになります。これから外地に出れば、途中丁寧な整備を望む事は無理でしょう。私は
太刀洗航空廠に滑油消費量の甚だしい数機のエンヂン交換を申入れました。航空廠
側も知って居りまして快く私の要求を容れてくれました。
(つづく)
38:マンセー名無しさん
08/03/11 15:52:44 58QqNb5A
激しく乙
エンジンにクセがあった話は広く伝わってるが
二式戦の具体的な整備の話は初めて聞いた
この陸軍戦闘機、「鍾馗」の名前で知ってる人も多いかもね
39:マンセー名無しさん
08/03/11 16:16:25 MrwIZgZe
>38
説明文を見逃してるよ。
> 二式単座高等練習機七機を受領して、ジャワ島マランに空輸するよう命令を受けました。
とか
> 九七戦を改造した二式単高練を大車輪で製作していたのです。
とかを。
でも俺もパっと見たとき、そう勘違いしたw
それにしてもいい文章だな、欲しい説明が簡潔で分かりやすい。他人に説明することに慣れた
人の文章なのかな。
40:マンセー名無しさん
08/03/12 09:04:44 jaf5fcDm
シルバー回顧録
URLリンク(homepage3.nifty.com)
じいちゃんが頑張っているサイト。
一読してみて、良ければ激励の一つもしてあげてくれ。
41:33
08/03/12 20:14:21 EuLEp69R
太刀洗の飛行場はなかなか活況を呈して居りまして、私が明野飛行学校で共に学んだ
同期生が一式戦や三式戦を駆ってニューギニアやビルマの戦線に出発するのに会いまし
た。彼等の意気軒昂な気迫に較べて、満飛製の二式単高練の整備に苦労している私は
一寸情ない気持ちになりました。また、勤労女子挺身隊のうら若い女性が飛行機の清掃
をしてくれていたのも楽しい記憶となって居ります。
エンヂン交換の終った飛行機の試験飛行をしていた鴫山機が、故障で四国の海上に不
時着したのが4月28日でした。八方手を尽して捜索した結果、瀬戸内海の三島沖合で機
体故障のため海上に不時着して居りましたが、本人無事でやっと安心しました。
翌4月29日、私は鴫山君収容のため三島海軍航空隊に飛びました。当時の言葉で云
えば天長の佳節です。陸軍の飛行機が来たので大変歓迎して呉れまして私は祝賀会の
宴に招かれました。私は先日の収容作業の礼を申して鴫山君を連れて帰ろうとしますと、
こんな目出度い日に来た客人がそそくさと帰る事があるもんですかと、無理に引留められ
て一杯飲まされました。次の飛行を控えているので少し押えていましたが元来嫌いな酒で
はないのでつい飲み過してから、海軍さんの心配するのを振り切って離陸しました。なん
と瀬戸内海の島々の景色が美しかったこと、これは私の生涯ただ一度の飲酒酩酊飛行で
した。誠に若気の至りです。
42:33
08/03/12 20:18:46 EuLEp69R
太刀洗を離陸するとそのすぐ下、福岡県八女郡が私の生れ故郷です。17年1月戦死し
た私の兄もここに眠って居ります。俺もそのうち会うよと云い乍ら彼の生前好きな煙草を投
下して知覧飛行場に向かいました。熊本上空附近に来ますと猛烈な不連続線に遭遇しま
した。操縦桿に?っていないと座席から放り出されそうになります。一つ一つが始めての
経験ばかりです。命からがら知覧飛行場に着陸しました。その時田志兵長は手前接地し
て機体破損、連浦を出てから既に2機損耗しました。夫々2名は代機を受領して後刻追及
しましたが、これではマランに果して何機到着するやら、編隊長として誠に心細い限りで
す。
知覧で最後の内地の夜を過して翌日沖縄に向けて飛び立ちました。始めての洋上航法
ですが、地図を見ますと途中沢山の島がありますから大した事はないと思っていましたが
、丁度初夏の候で海上は一面の靄がかゝっていて殆ど雲中を飛んでいるのと同じです。
現在は、無線機その他の航法機材が完備していますので大した事は無いのですが、当時
の私には大変な苦労でした。ほのかに見える洋上に輸送船が見えますと、あゝ此処でエン
ヂンでも故障して呉れたら救助して貰えると思うとついその輸送船の上空を離れ難くなり
ます。
私より操縦経歴の古い村上軍曹はやきもきし乍ら正しい進路を示します。右に沖縄を外
すと東支那海、左に外すと太平洋に海没するより外はないのです。やっと沖縄本島が見
えて高度を下げると前方に飛行場が見えました。やれやれやっと着いたと思って着陸した
ところ、これは目下工事中の嘉手納飛行場で目的の那覇飛行場はその直ぐ南にあるとの
こと、あわてて飛び上ると直ぐその下が目指す飛行場です。冷や汗ものの航法失敗談で
す。今後、村上軍曹を航法参謀に任命して前途を克服する作戦を練りました。
43:33
08/03/12 20:26:06 EuLEp69R
当時の那覇はむし暑く梅雨の真最中、また夜な夜な遊び好きの我々は懐中乏しくなっ
たので早く台湾に行かねばなりません。と申すのは、台湾以南は兵站旅館で宿代は無
料と聞いていたからです。天気予報もろくに見ず台湾の花蓮港飛行場に向けて飛び立ち
ました。当時の天気図は現在新聞に出ている程度のもので極めて雑なものです。石垣島
の近くに来ると前方は一面台湾坊主の暗雲です。これではとても台湾には辿りつけません。
丁度見えた石垣島の飛行場に着陸しました。ここは海軍の飛行場です。島の廻りには
悪天候で不時着した飛行機の残骸があちこちに見えます。ここで海軍の指揮官に悪天
候の為に不時着したので燃料の補給を頼みました処、誠に不本意な返事です。
ここは海軍の飛行場で陸軍の飛行機燃料を補給する事は出来ぬ,丁度近くに陸軍の爆
撃機が不時着して、それから抜いた燃料があるからそれを補給して行けとの事です。こ
ちらは新品少尉、向うは海軍大尉喧嘩にならないので仕方なくそれを補給して天候の回
復を待って台湾に向けて出発した処、大変な故障が待ち受けていました。
不時着した陸軍爆撃機から抜いた燃料を濾過しないで補給したので殆ど全機が気化器
に芥が詰って、エンジンはプスプス、やっと花蓮港に危機一髪で滑り込みました。またこゝ
で燃料タンクと気化器の清掃に大変な手間を喰いました。どうも今度の第二次大戦の敗
因に陸海軍の共同作戦の不一致もあるように感じますがその一端を覗いたような気がし
ました。
44:33
08/03/12 20:30:04 EuLEp69R
それにしても各機の滑油消費量は次第に増えるばかりでした。当時日本一の高山、新
高山をあっぷあっぷし乍ら越えて屏東に到着しましたが、未だ全行程の三分の一です。安
全確実に目的地に到着するには更に何等かの対策が必要であると感じて居りました。即
ち、当時としては常識外の滑油の増加タンクを機体に設置する事です。
私は屏東航空廠に交渉に行きましたところ、担当者はこれは前代未聞の事ですと吃驚
しました。私は現在迄の航法データを示してその必要性を力説しました処、快く諒承して九
七戦の胴体タンクを増設してくれました。これで概ね800kmの航続距離を確保して一安
心です。然し機体重量は益々増え離着陸操作は慎重を要するようになりました。当時の
搭載量を列記しますと次の通りです。機関銃2丁、燃料増槽2個、滑油増槽1個、それに
我々の身の回り品です。
日本を離れる迄にこれ丈け準備すればまあまあとして後はマラン迄最も効率の良い経
路を選んで早く戦列に加わろうと勇躍屏東を飛び立ちました。航法にも或る程度自身がつ
き我が編隊のチームワークも概ね完成しました。
少々の悪天候も気にせず、屏東離陸後は直ちに雲層突破、雲上で編隊を組んで一路
バシー海峡を越えて初めての外地フィリッピンに向いました。着陸した処はラオアグ、始め
てニッパ椰子のピストに休んでマンゴの御馳走になりました。
(つづく)
45:マンセー名無しさん
08/03/12 21:07:53 Ut8J51LA
前スレは読めないのでしょうか?
46:ぞ
08/03/12 22:56:03 PtJ1ZyDE
祖父様 体験談か~♪
今からしれば もっと戦争の話し聞いとけばよかたな~♪
南方宣戦 テレマカシーなご挨拶と 軍刀差して 猿に首輪付けて犬みたいにして 飼い馴らしてる 写真はあるんだけどな!
直に聞いた話したら あんま ねーんだよな! 親父通してしか!
でも 死ぬ前に 俺侍の子だけど 苦しいいの我慢デキネ 早く死にたいて 言うて病床から 2週間で死んだのは 覚えてんな~♪
直に聞いたたら 南北では 捕虜のビンタ張り係りだた とか、海上からの上陸のとき撃沈されたが足点く浅瀬だから 助かった とか そんな話しだたな!
明治生まれなんに 179cm
∵:・ゝ(゜ε゜*)ノブヒャ♪
祖母さんが夫婦喧嘩したとき祖父様に言うた 一句 は 内緒! 超ウケッから!
47:ぞ
08/03/12 23:06:00 PtJ1ZyDE
>46
南北ては を 南方ではに訂正 m(__)m
48:マンセー名無しさん
08/03/12 23:10:19 Il52HjDv
知覧出身の者です
小さい時から祖父母に特攻隊の色んな話を聞いて育ちました
今度、まとめて書いてみる…余裕があったらだけど
49:マンセー名無しさん
08/03/12 23:14:50 Il52HjDv
飛んできて書き込んでみたがここハングル板かよ
50:マンセー名無しさん
08/03/12 23:55:01 1wztVfRf
私は軍事板から飛んできたのでここしか見とらん
51:マンセー名無しさん
08/03/14 23:16:18 qa2u+vzk
ハン板だと解った途端に口調がガラッと変わったのがワロスw
52:マンセー名無しさん
08/03/15 08:59:16 nYmKFugs
家の死んだ爺さんが、よく話していました。
南京で犯しまくった娘の白い尻が忘れられないと・・・
命乞いをする子供や老人を笑いながら殺すとき
自分が神になったような気分だったと。
上官にいびられた憂さ晴らしには、
強姦と子供年寄りを銃剣で刺しまくるのが一番だったと。
家の爺さんは大日本帝国軍人の誇りです。
53:マンセー名無しさん
08/03/15 09:27:57 TtLpUzzJ
32 名前:マンセー名無しさん[] 投稿日:2008/03/15(土) 08:26:11 ID:nA24Yxe8
なんだこの糞コテの博覧会は
54:マンセー名無しさん
08/03/15 09:47:08 TtLpUzzJ
間違えた、こっちだったな。
952 名前:マンセー名無しさん[] 投稿日:2008/03/15(土) 08:46:57 ID:nYmKFugs
どうせ、取り戻せないよ(ボソ
55:マンセー名無しさん
08/03/15 10:00:59 Q0tqx9u7
ID:nYmKFugsは犯罪者の子孫として、一族の全財産を中国様に献上すべき。
ID:nYmKFugsは犯罪者の子孫として、戦時売春婦のおばあさんに奴隷として仕え、祖父の犯した罪を償うべく努力してくるべき。
卑怯な犯罪者の祖父に相応しい孫のようだが、せめて祖父の犯罪を償うべく努力をするべきと思う。
それは人間として当然のこと。
ささ、ID:nYmKFugsは犯罪者の子孫として南京にいって、自称日本兵に強姦されたとかいう
被害者のおばあさんたちに心からのおわびと、目に見える謝罪として全財産を渡してくるのだ。
56:マンセー名無しさん
08/03/15 11:15:49 nYmKFugs
>>55
何人犯せるか、何人殺せるか、部隊で賭けをしていたそうです。
家の爺さんは、合計28人で賭けにボロ負けしたそうです。
それでも、家の爺さんは大日本帝国軍人の誇りです。
57:マンセー名無しさん
08/03/15 12:03:55 DpH5kuRv
朝鮮人ってのはどうして息を吐くように嘘をつくのかね┐(´∀`)┌ヤレヤレ
58:マンセー名無しさん
08/03/15 12:22:24 nYmKFugs
家の死んだ爺さんが、よく話していました。
南京で犯しまくった娘の白い尻が忘れられないと・・・
命乞いをする子供や老人を笑いながら殺すとき
自分が神になったような気分だったと。
上官にいびられた憂さ晴らしには、
強姦と子供年寄りを銃剣で刺しまくるのが一番だったと。
家の爺さんは大日本帝国軍人の誇りです。
59:マンセー名無しさん
08/03/15 12:29:18 DpH5kuRv
ごめんごめん、朝鮮人も当時は日本人なんだよな('A`)
60:マンセー名無しさん
08/03/15 12:39:47 1Cs8KGwK
なあそんなにでっかい釣り針に引っかかって楽しいのか?
61:マンセー名無しさん
08/03/15 12:47:10 DpH5kuRv
そうやってすかすのが意味あるとは思えんけどね。
62:33
08/03/15 16:08:51 WvQq9Z/G
次はクラーク飛行場着陸前右手にコレヒドール要塞を見、私の兄がこの上空で緒戦にお
いて散華した情景を想って居りました。
次はパラワン島のポートプリンセス飛行場へ、一飛び毎に風物が異って想いは益々マラ
ンに募ります。パラワンの飛行場は全くの前線基地です。飛行場の周囲はビッシリ椰子林
で囲まれ滑走路の距離も短く離着陸がさぞかし困難であろうと感じました。燃料補給、点火
栓清掃、その後直ちに離陸して空中集合しますと一機が馬力が出ないらしくなかなか追い
着きません。何か故障があるものと判断してまた着陸して点検しました処、某君は点火清掃
後その一つを装着するのを忘れて離陸したとのこと、あの狭い飛行場でよく離陸出来たもの
と、今でもマラン会で会う度に思い出話になって居ります。
次はラブアン、此処は北ボルネオの重要基地です。各機種がひしめき合っていました。当
時私が航空士官学校時代面識のあった、重爆隊の石橋戦隊長に会いました。挨拶します
とお前はどの飛行機で来たかと問われましたので私の乗っている二式単高練を指します
と、お前ようこんな飛行機で飛んで来たな、誘導機も無しにこんな航法するなんて昔は考
えられなかったよ。呉々も慎重に飛んで目的を達せよと申された事が印象に残っています。
次はクチンえ南方特有の好天に恵まれて呑気に飛んでいましたが、前方の雲行きが怪
しくなって来ました。猛烈なスコールです。上空の積乱雲は越せそうにもなく海上もとても
突破出来そうもありません。引返す決心をして旋回して居ますと下に思いかけず飛行場が
見えましたのでそこに着陸してスコールの通過を待つ決心をしました。場周旋回して着陸
降下に移った時左右の椰子の木に大きな白い鳥が見えます。成る程ボルネオのオウムは
大きんだなと感心しつゝ着陸すると、椰子からするする降りて来たのは現地人の子供達で
した。
↓輸送経路 参考までに
URLリンク(www.soutokufu.com)
63:33
08/03/15 16:14:59 WvQq9Z/G
なかなか天候が回復しないので当地で一泊しましたが、その晩は大歓迎です。めったに
来た事のない飛行場に臨時に我が編隊が着陸したのですから、現地の志気が上ったの
でしょう。司政官は当時の土肥原中将の同期生で早く軍人をやめて南方進出の先兵とな
って居られる方でしたが、こゝに日本人の開拓者魂を垣間見たような気がしました。その
晩皆と相談して、最も早くマランに到着するには一路南下してポンチャナック経由バンカ島
を経て、バンドンに行く事に決定しました。
翌朝、皆さんの歓待を謝しつゝビンツルを離陸一路ボルネオの樹海を越えてボンチャナッ
クえ、編隊を解散して着陸降下中地上を見ますとどうも滑走路上に沢山の人々が作業し
て居ます。当時未だ工事中だったのです、直ちに着陸止めの翼を振りつゝビンツルに帰り
ましたが帰途一機足りません。どうやら誰かが着陸したらしい、大きな事故にならねば良
いがと念じつゝ、ビンツル着陸後各所に連絡した処、某君が着陸して車輪パンクの程度で
一安心。それにしても修復器材も無いだろうし当地で整備力のあるのはクチン飛行場と判
断して前進して対策を立てるつもりの処、彼は無事修理して我々と合流しました。
当時はその位、各飛行場の情況が判らない状態でした。
クチンの一夜は、パイナップルのうまかった事、ダイヤ族の首狩り情景を示す博物館、華
僑がこんな遠い処にも根を張っている事等が記憶にあります。
次はシンガポールへ、4,000m以上の積乱雲を越えての航法は誠に爽快です、刻々近づ
く昭南島、マニラ以来二度目の近代都市です。カラン飛行場に着陸すると各機始めて戦
地らしく分散配置の掩体壕に地上滑走です。飛行機の後方からは捕虜の英人が上半身
裸でボロのパンツをはいてゾロゾロ続いて来ます。滑走援助です。こちらの下手な地上滑
走を棚に上げて右押せ左押せと叱り乍ら掩体壕に入れて飛行機を降りますと、捕虜の英
人共はペコペコし乍ら手伝います。戦争は負けるものじゃないなと得意になって居りました
が、2年後は反対に私達がその境遇に陥るとは想像もしませんでした。
64:33
08/03/15 16:29:40 WvQq9Z/G
シンガポールでやゝ近代的空気を吸って戦勝気分を味わい乍ら、次の目的地はパレンパ
ンです。空の神兵ともてはやされた空挺隊の降下した飛行場です。ムシ河の流れには石
油が混じっているのが上空から見えます。石油の一滴は血の一滴と云われた事等を思い
乍らのんびり着陸したところ、編隊長機は着陸でひっかけられて車輪パンク!何とも恥し
い次第でした。村上君がパンドンに飛んで車輪を空輸して呉れ、やっと救われました。
パンドンは上空から見ればカラフルな街です。異国情緒たっぷりでした。
いよいよ最後のコース、あこがれのマランです。途中の山々、積乱雲、段々畑、マラン
はどんな処だろうと思ううちにマラン盆地に入りました。
さて飛行場は何処だろうと地図を出して標定しますと、アルジュノ山の南方になって居ます。
一生懸命探しましたが飛行場はありません。イライラしながら旋回していると右手にやっと滑
走路が見えました。当時の地図はその位不確実なものでした。やれやれやっと辿り着いた
のが、確か昭和19年5月下旬だったでしょうか、其処でまた、マラン会員の皆さんと青春の
ドラマが始まったわけです。(以上)
付 言
昨年2月私達20数名は30年ぶりにマラン飛行場を訪れました。現在はインドネシア空軍の
重要基地になって居ります。思いがけぬ暖かいマラン空軍基地司令官の招宴には、戦時中
マラン飛行場で働いていたインドネシアの老人が、数名招かれて居りました。本当に心憎い
接待です。
我々旅行団員を兄として遇して呉れました。当時の兵舎も飛行場も、またマランの町も殆ん
どその儘でした。前にも述べましたように試行錯誤を重ねながら辿り着いた8,000㎞の距離
は、現在は航空機の発達に依って一飛び、8時間位になりました。今後益々、我々マラン会
員は日本とインドネシアの架け橋となって、お互いの親善を高め合おうではありませんか。
(おわり)
次は、地上部隊の船舶移動の様子を投下します。こちらも苦労の連続だったようです。
投下のピッチは土、日、水でいこうと思ってます。
65:マンセー名無しさん
08/03/16 02:16:52 iwqS/r3y
おつ~
66:33
08/03/16 23:20:27 AhP+A6fn
マランへの道
石 橋 慎 三
門司岸壁にて植田隊と別れてよりマラン到着までの二ヶ月半の状況を記憶にある限り書いて
みようと思う。人名、階級、其の他誤があるかもしれないが大筋には間違いない。階級はその
時のものを使用した。
第36教育飛行隊ジャワ島マランへの移動の為、最終部隊として植田中尉以下三百数十名と
始動機、燃料タンク車、スペリー、無線車、トラック、四輪駆動車、側車等の車輛15、6台で連
浦を出発したのは未だ肌寒き四月頃であった。
興南の駅より鉄道にて夜出発した。釜山より日昌丸にて下関へ、朝鮮海峡は相当荒れてい
た。下関の旅館へ分宿、三、四日目であったか門司船舶司令部より音羽山丸へ乗船の指示
があった。直に乗船準備を整えて門司岸壁に集結した。本船は沖に停泊していてハシケにて
連絡していた。植田隊長はハシケ第一便にて連絡の為本船に行かれた。荷物の積込み、兵
員の輸送が行われていた。間もなく岸壁に戻られた隊長は私を呼ばれた。「オイ、あの船に皆
んなは乗れんよ」
私は驚いた。船は一万屯余であり乗船部隊は我我だけ、そんなことは考えられないことであ
った。然し考えてみれば、第一に自動車をハシケに積んで沖まで行き本船に吊り上げねばな
らないが、岸壁にはそれらしき器械は見当らず、只広々としたコンクリートの広場であった。又
本船もタンカーであり自動車を吊り上げるウインチがないと云うことであった。
次に本船はタンカーで人員輸送の設備はなく、三百数十名の給食が不可能との事であった。
67:33
08/03/16 23:27:42 AhP+A6fn
「オイ、自動車と今此処にいる者を連れてお前残れ、後から来い。」私は目玉が飛び出る程驚
いた。全く予想外の状況変化であった。
この時既に大半の乗船を終り残ったものは私石橋少尉以下百三十数名と自動車とドラム罐
数本の自動車用燃料であった。最終ハシケで植田隊長は行って了った。この間一時間位で
あったろうか。
百三十数名と自動車十数輛を如何に早く且つ安全に目的地マランへ到着させるかと云う大
責任が任官間もないチンピラ少尉である小官の双肩にのしかゝって来た。
今までは植田隊長の指示命令通りに行動すればよかった。自分なりにも努力もしたし又責任
もそれなりに感じて来た心算であったが此の時責任と云うものがどんなものか、又今までも責
任を自覚していたとは云え、それは植田隊長を頼りにした上のことであり不充分であったこと
を身にしみて感じた。
ハシケで遠ざかり行く隊長以下戦友達を残された者百三十数名と共に見送りながら、これが
最後かもしれないと云う気持が胸中を走り抜けた。衛生関係玉村軍曹、主計小原曹長であっ
た。衛生上の責任を負った玉村軍曹は大変なことであった。
一般軍務に関しては既に実戦の経験者である後藤准尉が居た、堀見習士官もいた。深須軍
曹の外太刀洗以来の連中が多勢いた事は大変心強かった。
我々は再び下関へ引返して旅館に分宿、次の便船を待つことになった。毎日毎日旅館の中
でゴロゴロしているのは大変であった。外出は防諜上厳禁であった。
暫く下関に滞在するのを余儀なくされたので、下関衛戊司令官へ申告に行った。司令官であ
った年配の大佐殿は私に懇々と防諜の必要を説かれ外出禁止を強く求められた。憲兵の目
も厳しいものであった。
68:33
08/03/16 23:46:13 AhP+A6fn
こうした旅館での罐詰生活は次第に堪えられない状況になって来た。二、三日ならともかく一
週間十日となると理屈をつけた行軍演習程度ではどうにもならない。幸にも我々には自動車
があった。燃料も持っていた。
小月の防空戦隊の戦隊長阿部少佐は36教飛編成までの連浦に於ける一年間私の部隊長
であった。自動車行軍を実施した。目的地は小月である。小月まで約30km弱トラック五台に
分乗して出掛けた。
阿部戦隊長は大変機嫌よく迎えて下さった。ピストの前にキ八四、四式戦が翼を連ねていた。
この新鋭機を前にした飛行服姿の阿部少佐は正に空の勇者の風格があった。私達は最新鋭
機による実戦部隊の訓練を見学することが出来た。阿部中佐は一度マラン飛行場にも来られ
た筈である。
こんなことを毎日毎日続けているわけにもゆかない。困り果てた私は後藤准尉と相談をし外
泊許可を出して数日間帰宅させることにした。これは何でもないように思えるが私にとっては
重大事であった。相当な覚悟で踏み切った。
外出禁止で困り果てたとは云え実行に踏み切った最大の理由は、やはり二度と再び内地の
土を踏むことはなかろう。家族との再会は期し難い。この機会を逃したらもう絶望であろうと云
うことであった。
然し実際に行動に移すに当り先づ第一に憲兵の目がある。全部一度に宿が空になることは
問題である。緊急の場合直ちに帰隊出来なければいけない。許可権のある中隊長はいない。
等々むづかしいことばかりであった。然し実行することにした。
門司の船舶司令部に私の中学時代の友人(現東農工大教授)が勤務していた。私は彼に五
日以内には配船しない様申し入れた。
(つづく)
69:マンセー名無しさん
08/03/17 02:00:50 M2+cIB/X
乙。
70:マンセー名無しさん
08/03/19 14:23:55 l0SpPOfb
33氏乙です、上も下も大変だったんですね。機転を利かさないと自分が
行くべき場所にもたどり着けないとは。
>43
確か、海軍と陸軍では使用するガソリンのオクタン価が違って陸軍機の
方がオクタン価高いのでしたっけ。
それは気軽に補給できないでしょうね。
71:33
08/03/19 19:40:15 A9KuTfuX
軍隊では要領がよくないとやっていけないということは聞いた事があります。
こういうのを読んでいるとよくわかります。
海軍と陸軍の兵器の仕様が違うということは聞いたことあるけど、ガソリンもですか。
仕様を変えるメリットって何かあるだろうか。
前に乙やレスしてくれた人ありがとう。
兵器についての知識が乏しいもんで、気の利いたレスが返せなくてすみません。
72:33
08/03/19 19:46:05 A9KuTfuX
それから外泊先の制限をした。西は九州一円、東は大阪まで四国はダメ、離島即ち船で行く
ところはダメ。海が荒れて帰隊出来ないことが起る可能性がある為である。この制限は後藤
准尉と内密に相談を重ねた上の決定であった。
この様な制限をすれば三分の一位が該当するであろう。宿が空になることはない。緊急の場
合も兎に角帰隊出来るであろう等考えながら、中隊長代理陸軍少尉石橋慎三の名前で外泊
許可証を発行した。
代理とは窮余の一策であった。勝手な中隊長代理であった。該当者は喜んで帰って行った。
然し当然帰れないものも出る。隣町だから帰して呉れ。瀬戸内海の島だから帰して欲しいと
云う者が出て来た。これは最初から覚悟して居たことではあったが当面すると拒否することは
仲々むづかしかった。最後の面会の機会を与えると云うことが最大の理由であれば尚更である。
然し一つ許可すればその次の町も許可しなければならず、結局全部許可と云うことになって
しまうのであとの申し出は一件も受け付けなかった。
今後戦地のことを思い一度決心して決定したことは中途で変えることは一切やらない。万一
それが少々誤っていたとしても決して中途で変更はしない。それまでに充分考え尽くしての上
であれば止むを得ないと固く心にきめていた。終戦後クアラ飛行場に於いてこの考え方に支
えられたことがあった。
このようにしてあとの申し出を拒否し続けながらも、多数を遠くまで帰した場合万一事故でも
あったらとそれが恐ろしかったのも確かである。
その時笹生長次郎上等兵が現れて、帰宅の許可を申し出た。成る程許可線外であるが僅か
である。家庭の事情もあったように思う。私が前記のような大決心であったに不拘、笹生上等
兵の申し出を受け入れてしまった。拒否し続けるのに精神的に参っていたかもしれない。この
一ヶ月足らずの内に彼が戦病死し、これが最後の面会になってしまったことを思えば天の啓
示であったかもしれない。
73:33
08/03/19 19:51:05 A9KuTfuX
外泊ではなくて両親を呼ぶことにした。
私は郵便局から私の名前で下関まで来て欲しい旨電報した。御両親は何事かと驚きながらも
直に私のもとに来られた。そうして私の部屋で数日を過された。これが笹生上等兵と御両親
の最後の面会となった。
笹生上等兵はマラン到着に至らず、シンガポールに上陸、筑紫山南兵営に宿営中発病(病名
は忘れてしまった)ジョホ-ルバールの病院に入院したのは小原曹長と二人であったと思う。
二人を病院に残したまゝマランへ出発した。マラン到着後まもなく小原曹長は元気になって着
任した。その時小原曹長の報告で、始めて笹生上等兵の戦病死を知った。
最後にジョホールの病院に訪ねたとき、大手術後に不拘非常に元気で「すぐ行きます。大丈
夫です」と笑ったのが忘れられない。その後主治医であった老軍医大尉に会い後事を託した。
老軍医は大変親切な人で「オレが引き受けた。心配するな。元気にしてすぐ送ってやるよ。
こゝの看護婦は大変よい看護婦なので安心しなさい」と云われた。この病院には回復の見込
みのない患者もいた。看護婦達は小使いを出し合って材料を仕入れ、日本の匂いのする食
事、菓子等を作っては軍医の目をかすめては患者に与えていた。
軍医はそれを知りながら見逃して患者に最後の母国の味覚を楽しませていた。軍医殿はそ
の一部を持参させた。私もそれを頂いた。誠に美味であった。しかしこの話を聞いたのは賞味
した後であった。何とも云えない味が舌先に残った。私は安心してマランに向った。
そんな事を考えながら小原曹長の報告を聞いていた。今こゝに病状急変とは云え彼の元気な
報告が聞けないのは、甚だ残念であった。
下関での数日の面会は遺族の方々にとっても最後の思い出となって心に刻まれておられる
であろう。あの時私が電報を打つのを止めていればこの機会は失われていた筈である。会わ
せておいてよかった。もしやめていれば、あの時あゝしておけばよかったと三十六年後の今日
迄、いや一生心の奥に悔いが残ったことであろう。今でも切にそう思う。
74:33
08/03/19 19:54:52 A9KuTfuX
それはそれとして下関に於ける外泊許可が的を射たものであったか否かは問題だと考えるこ
とがある。戦時防諜上よいことではないのは確かである。
何れにしても我々の船団は門司港数日後、台湾沖で毎時十三浬の高速船団でありながら第
一回目の敵潜の攻撃を受けた。僚船有馬山丸に乗っていた兵隊の内、相当数が戦死した筈
である。
防諜上の義務を犯したという点に関しては後悔の念皆無とは云えない。これは私が植田隊長
と別れた後、最初にやった決定であり出鱈目であった。
この様な状況下約一ヶ月を下関に過し、記録によれば昭和19年5月29日マニラ丸に乗船門
司港より図南の途についた。
マニラ丸は九千屯余の老朽貨物船であった。老朽であるが故か厚い鉄板とリベットで組上げ
た頑丈な構造で、戦時標準船に比べれば装甲車と戦車のちがいは充分であった。
車輛は船倉の下の方に積み込まれた。乗船した兵員は数千名に及んだことだろう。
何しろ総員は輸送指揮官以外我々には知る由もなかったが、船倉の坪当り十三名とか十四
名とか云う話であった。当時坪当り何名乗せたと云うことが、船舶司令部の腕前だという噂を
聞いたことがある。
十四、五名分の装備を一坪に置けば山積みとなる。人が立つ所があろう筈がない。正に満員
電車さながらであった。輸送指揮官は歩兵聯隊長の陸軍中佐、輸送副官は聯隊副官の大尉
であった。この副官が物分りの大変悪い人でシンガポール下船迄、我々の様な便乗者連中
は悩まされ通しであった。
考えかたによっては一々我々の言い分を聞いていては仕事にならなかったのかもしれないが、
何れにしろ我々にとっては難物中の難物であったことは間違いない。この様な輸送指揮官、
副官の下、兵員を鈴生りにしたマニラ丸は前途の苦難も知らぬげに静かに岸壁をはなれて行
った。
75:33
08/03/19 19:59:39 A9KuTfuX
夕暮れ近き岸壁は人影もなかったが、建物の屋上に二人の娘さんの姿が見えた。頬杖をしな
がら我々の出港を無言でぼんやりと眺めていた。私は傍の誰かを呼んで「ホレよく見ておくん
だ。多分あれが日本の娘を見る最後だろうよ」と云ったことをよく憶えている。
その日出港した船は十三隻。船団は六連島沖に終結。夜半に南へ転出して行った。好天に
恵まれ、一日一日と暑さを増しながら南進を続けていた。
船団速度は十三ノット半、相当速い船団である。然し我がマニラ丸は十三ノット半について行
くのが大変だった。煙突からは黒煙もうもう、夜は火の粉を吹き上げて老体に鞭打って息切れ
寸前の状態である。他の船はヂーゼルエンヂンの優秀船であり、マニラ丸はお荷物の外何
者でもなかった。昼の黒煙、夜の火柱は敵潜に船団の所在を知らせるのに充分であった。
船上では超満員の兵隊が居る所がなく、通路、階段、ハッチの上、ウィンチの上、所きらわず
至る所隙間なくあふれた。暑さが増すにつれて裸の連中が増えて行った。然し海中に投げ出
された時は着衣が絶対必要である。皆に衣服を着けさせるのは大仕事であった。
門司港出港数日後の夜半、潜水艦に対する警戒態勢が下令された。続いて退船準備である。
全員救命具をつけーと云われても、我々にはそんなもの一つもなかった。唯、救命用のいか
だを若干持っていたように思う。丁度私は船倉の中に居た。
前以って用意していた縄梯子で中に居た全員を甲板に送り出した。うしろから肩をたゝかれた。
振り返ると隣に陣取っていた少尉である。彼は初年兵を多数南方へ連れて行く途中であった。
彼は自分の部隊にも縄梯子を使わせて呉れと云う。私は遠慮なく使えと云い置いて部下が残
っていないかどうか確かめた。その時一人が背中を見せて座っている、後藤准尉であった。
(つづく)
76:791 ◆9zatwGbxuw
08/03/19 20:42:09 nPhLunNc
33氏、乙です。
指揮者というものが如何に悩み多いものか良くわかるね。
仕様の違いですが、航空機に関しては陸海共同で研究した事があるそうです。
ただし、その頃は飛行機そのものが未発達で今後どうなるものかはっきりせず、
なおかつ陸海で欲しい能力が違い(海軍の場合、航続距離と時間が必ず必要な
ため飛行船の方が本命だったりしたそうです)、結局はそれぞれ独自に研究を行
った結果のようです。
仕様を変えるメリットというより、仕様を統一するメリットがなかったという事ですね。
で、気付けば仕様統一するのが困難な事態に、スロットルの開閉すら逆だった訳で。
77:マンセー名無しさん
08/03/19 20:43:13 nPhLunNc
ごめん、コテがそのままだった……以降、名無しに戻ります。
78:33
08/03/22 23:44:30 r+CgjJHu
乙、ありがとうございます。
>仕様を変えるメリットというより、仕様を統一するメリットがなかったという事ですね。
なるほど、言われてみるとそうですね。
79:33
08/03/22 23:47:46 r+CgjJHu
「オイ、早く上れ」「先に行ってて下さい、あとですぐ行きます」私の上づった声に比べて何とも
落着いた声であった。私は実戦の弾をくゞった者の落ち着きを見た。当夜有馬山丸に魚雷命
中、沈没はまぬがれたが、へさきの一部が吹き飛ばされた。近くに居た有馬丸であったが、音
を聞いたか火柱が見えたか全く記憶にないが、翌朝台湾を右に見て南下する時並んで航行中
の有馬山丸のいたいたしい姿が見えた。船の先端の一部が吹きとばされて形を変えて大穴
が口を開けていたが、さすが当時の最優秀船だけに傾くこともなく航行を続けていた。然しあ
の様子では相当数の戦死者を出したことであろうと思われた。海中には雷撃時とばされたと
思われる大小の梱包が海面に浮き沈み流されていた。その間に多数の鱶のヒレが見えがく
れしている。背中がゾクッとした。
深夜海中に投げ出された人間に喰らいつく鱶の様子が頭の中をかすめた。
台湾の南端を廻って高雄港に入港した。有馬山丸修理の為である。
六月の高雄は大変暑い。マニラ丸はこぼれる程の兵員を乗せたまゝ高雄の岸壁に接岸した。
こゝで例の副官に手を焼いた。兵隊の運動の為、岸壁までの上陸許可を求めた。最初は無視
された。梯子を貸した例の少尉外、数名の同士を集めて三、四回の交渉の結果、岸壁で体操
をやることになった。
これは乗船していた者全員に大変な恩恵を及ぼした。岸壁に降り立つことが大問題になる程
、船上の生活はひどいものであった。衛生状態も次第に最悪に近づいていた。下痢患者も増
加する一方であった。
兵隊全員が陸上で久しぶりに充分に手足を伸ばすことが出来た。この快適さは文字に表せる
ものではない。
次に考えたことは酒保品の確保である。
門司出発の際我が部隊の酒保品は全部音羽山丸に積み込んでいたので、手許には何一つ残
ってはいなかった。船中他の部隊は若干の酒保品の分配があったが我々にはなかった。
私は此度は私一人の上陸許可を副官迄申し出た。私の上陸の理由は我々の部隊長が空輸
途中今頃丁度、屏東の飛行場に到着している筈である。依って私は部隊長に報告と命令受
領の為、屏東まで行かねばならないと云うことであった。副官ではらちがあかぬので輸送指
揮官の中佐殿に直談判に及んだ。
80:33
08/03/22 23:56:12 r+CgjJHu
歩兵中佐の輸送指揮官には部隊長が屏東にあり、我々が船中にあると云うことが仲々理解
出来なかった様だ。やっと私一人の上陸許可が与えられた。
高雄の六月は暑い。夏服であるが防暑服ではない立襟長袖の軍服、軍刀をぶら下げ、長靴
をはいて上陸した。私の懐中には三百円余りの金があった。内地出発に先立ち戦地加棒を
二、三ヶ月前払いして貰っていた。その外奉天出張時の残金と三月末の年度末賞与等で割
合大金があった。
交通機関は全く判らない。唯、町と思われる方向へ歩く外なかった。どこでも港から町までは
相当の距離がある。果物屋とお菓子屋を捜した。果物屋でバナナを買った。一人一本当り約
百四十本位、次いで菓子屋で金平糖を石油カン一杯買い求めた。両手に広げると相当な目
方である。軍刀が邪魔になった。頭上の太陽は遠慮ない。大変暑い、汗が目に入る、途中何
回休憩しただろうか、やっと港の近くまで来た。もう少し行けば船が見えると云う所で憲兵軍
曹に呼び止められた。
「モシモシ少尉殿、どちらまで行かれますか」「そこのマニラ丸まで帰る」憲兵軍曹殿は先刻承
知であった様だ。「荷物は何ですか」「これは見ての通りバナナである、カンの中は金平糖だ、
兵隊の酒保品として買って来た」「よく判りました。然しキンチョウは困ります」この時始めてバ
ナナのことを台湾ではキンチョウと云うことを知った。
バナナは防疫上船への持込みは禁止されているのでこの先へもって行かれるのは困ると云
う。この暑さの中を苦労してこゝまで持って来て甚だ残念である、皆の顔が見える様だ。それ
で私は憲兵に云った。若し君に会わなかったら私はキンチョウを持って行って了ったであろう、
従って君は向うを見ていて見なかったことにして呉れ、皆が待っているんだ。
憲兵軍曹殿は真意は充分に理解して大変同情はして呉れたが、見てしまった以上見過すこ
とは出来ないと職務に誠に忠実な憲兵軍曹殿であった。私は止むを得ず、「よし判った、これ
はお前にやるから持って行って皆で喰え」と云った。憲兵さんは誠に困ったような顔をした。石
油カン丈を持って帰船した。内地で甘い物に遠のいていたので皆で僅かではあったが味わった。
81:33
08/03/23 00:01:34 IkQtTfl/
高雄の岸壁の倉庫には輸送出来ずに山積みされた砂糖の袋が見えた。
すぐ傍のドッグで作業中の有馬山丸の修理は、唯破損されたところだけ蓋をする程度のこと
で人員を下船させることなく、そのまゝの状態で続けられていた。毎日堪えられぬ様な暑さが
続いた。鉄製の船な太陽でどんどん暑くなってゆく。接岸していては風もない。まるで火の上
のフライパンの中に人間が多数投げ込まれた様なものだ。夜は夜で船内の気温は仲々下が
らない。蒸し風呂、否サウナと云った方が近いかもしれない状態であった。皆は甲板で寝た。
人間の畳を敷いたようなもので一寸の隙間もない程であった。
一週間近いこの様な状況から開放される時が来た。
新しく船団を組んで出港することになった。一旦港外に出たマニラ丸は再びゆっくりと港内へ
引き返し始めた。船団の指揮官からか、護衛艦の方からか判らないが兎に角マニラ丸は速
度が遅く、十三ノットを出す為に煙突から火の粉を吹き上げては敵船の目を逃れるのに誠に
不適である。従ってあとの低速七ノット程度の船団に加わって貰い度いと云うことであったらし
い。
又、岸壁に逆戻りである。
高雄で船上生活は誠に暑かった。衣服は内地を出る時着たまゝであった。洗濯など思いも及
ばぬ状態であった。今思えばフンドシ等どうしたのであろうか。臭気が鼻をつきいつの間にか
あちこちに虱が湧き出した。今までいなかったのが何所からやって来たのかあちこちに現れ
た。全く湧き出したと云う感じである。虱がわくとはよく云ったものだとつくづく感心した。
やっと出港の日が来た。
高雄港外に集結した船団は大小合せて二十三隻であった。二列縦隊の船団は堂々たるもの
であった。護衛の為改装空母雲鷹及駆潜艇数隻が付き添って呉れた。
見たところ堂々たる船団は一路南進。時折り空母より発進した飛行機が我々の上空を舞う。
船足はゆっくりしたもので七ノット半。
船上の衛生状態は増々悪い。もう殆んど全員が下痢患者である。私も一日四回五回は便所
通いである。
(つづく)
82:マンセー名無しさん
08/03/23 01:09:05 ffY7OwqY
乙であります!
83:マンセー名無しさん
08/03/23 01:54:11 Zfd39tGF
お、続きが来たな。乙。
84:33
08/03/23 22:10:51 agcsImWH
その又便所が大変なものであった。舷側に二枚の板が30㎝くらいあけて突き出されている。
その回りを申し訳程度に囲ってある。下は海、用足しの姿が外からよく見える。風通しはまこ
とによい、そこでの下痢である。どこにどうなって消えるのやら、伝染病でも発生したら全員一
コロである。然し幸いにも伝染病はなかった。が下痢は止まらない。こんな便所の前に又行列
が出来る。憐れなる状況であった。然し食べ物は出来る丈食べた。食べなければ脱水症状に
なり衰弱がひどくなるからである。
敵潜水艦が近くまできているとの情報が流れる。飛行機が警戒しているが何ともならないらし
い。警報がない限り何もすることはない。唯食っては出すの状態である。山砲を引き出して敵
潜威嚇士気鼓舞を兼ね射撃をしようと云うことになった。2,000mで撃った弾はすぐ目の前に
チャポンと落ちた。海の広さがよく判った、海上の2,000mは非常に近い。威嚇射撃どころで
はなかった。
相変らず潜水艦の恐威にさらされながら船団はパラワン島沖を南下していた。船上で虱をつ
かまえて眺めるのも仕事の内であった。双眼鏡を逆にして眺めると大きく見える。手の平に乗
せて、堀見習士官と虱の競争をさせた。虱の競争などマニラ丸に乗った者でなければ知らな
いことであろう。
下痢は止る気配が全くない。次第に体が衰弱して行く。こんな状態で海中に投げ出されたら
忽ち溺死することであろう。
船団はリンガエン沖にさしかゝった。真昼間、目の前で大音響と共に水柱が高く上がった。四
千屯位の中型タンカーの中央部より若干後方に魚雷命中。警備の駆潜艇が走り回る。魚雷
を受けたタンカーは命中箇所より後部が折れ曲り、最後部は水面すれすれであったが沈没は
しなかった。直に僚船が曳航してマニラに入港した。
マニラでは沖に停泊、上陸は出来なかったが現地人が小船で本船の回りに果物を売りに来
た。綱で果物を吊り上げるのであるが、金の受け渡しが仲々むづかしいようである。
数日後、船団はマニラを出港したが行先は不明、船の数も大分少なくなったようである。護衛
の空母も駆潜艇も見えなくなった。
85:33
08/03/23 22:19:12 agcsImWH
或る日、甲板での喫煙の禁止が云い渡された。船はボルネオのミリーに到着していた。ミリー
は石油の産地で水面の油に引火の恐れありとのことで甲板上の喫煙禁止と相成ったようで
ある。マニラ、ミリー間は平穏無事であった。ミリーでの用件は不明のまゝ直にシンガポール
に向け出港。明日の夕方か明後日早朝にはシンガポールに入港と云う夜半、突然対潜警戒
が発令された。僚船が一隻攻撃を受けたらしい。間もなく各個シンガポールに急行すべしと云
う命令を受信して、我がマニラ丸も速度を上げながらシンガポールへと急いだ。
早朝シンガポールが見え出した。もう大丈夫。次第に船は港に近づいて行く、町や木の緑が
判然として来た。その時出港して行く二隻のドイツ潜水艦があった。艦体は淡いブルー、司令
塔の横に鮮やかにドイツ国旗が画かれていた。
甲板上で数人の乗組員が帽子を振り手を上げていた、我々もこれに応えて手を上げた。何だ
か無条件に胸が熱くなったのを忘れない。シンガポールのドッグで日本の手で手入れされた
ドイツ潜水艦は再び母国へ帰って行くのであろうが、帰り着けるであろうかと思わずにはいら
れなかった。
岸壁接岸は夕方であった。附近の景色を見る余裕など全くなかった。全員疲労甚だしく満足
にあるけるのは数える程であった。然し、我々には自動車があった。宿舎迄の移動はあまり
心配しなかった。
種々の手続きを終り輸送指揮官の指揮下をはなれて上陸したシンガポール第一歩である。と
ころが自動車の揚陸は明日になるとの連絡をうけた。これは大変なことになった。船当局と
種々交渉したが無駄であった。上陸した皆んなは岸壁に座り込んでいる。今夜の宿舎はシン
ガポール西側筑紫山にある英軍兵舎跡南兵舎であることが判った。そこまで相当の距離が
ある。とても歩いて行けそうにない。私は野田文一郎軍曹を呼んだ。
彼は大変元気であった。野田軍曹はシンガポールは二度目である。何も判らない私は彼に道
案内をたのんだ。彼とてシンガポールに精通しているわけでもなかろう、まして港の中判ろう
筈もないが彼はよく知っていた。先づ第一に電話のある所をさがした。航空地区司令部に電
話した。既に夕方であった為か副官はいなくて週番士官が電話に出た。
86:33
08/03/23 22:35:40 agcsImWH
「当方は36教飛の最後部隊であるが只今上陸したが、兵隊の疲労衰弱著しくとても皆帰兵営
迄の行軍不可能である車輌を出して欲しい」週番士官は我々の到着を知っていた。
「本日到着した航空関係部隊は外にも沢山ありますので見習士官指揮の下に自動車十数台
行って居ります。既に現地に到着している頃です。見習士官に連絡の上その車輌をお使い下
さい。当方には今一台もありません」
週番士官の回答は以上の様なものであった。私と野田軍曹は手分けして埠頭の中を走り回
ってやっと地区司令部の見習士官を見つけた時はホットした。見習士官は一台を我々の為に
割り当てて呉れた。無理は云えない。歩兵部隊は携帯兵器及び公用行李其の他大荷物を持
って既に歩き始めて居た。其の時航空部隊の有難味をしみじみ味わった。
第一回目として歩行が困難なる者及び全員の装具を乗せ、堀見習士官に設営を命じ先発さ
せた。車は空で間もなく帰って来た。もう既に暗くなって来た。こんどは元気な者を残し乗れる
だけ乗せて出発させた。自動車が出発後私は残った者と一緒に歩き出した。道に迷うことは
なかった。埠頭から南兵営迄行軍している兵隊でつながっていた。
途中で引き返して来た車に拾われて南兵営に集結したのはもう大分遅い時刻であった様に
思う。それから私は翌日の車輌揚陸の打合せである。二十名位の人員をつれて行かねばな
らない。埠頭までの足の確保である。つかれた等云っては居られなかった。然し翌日自動車
も揚陸を終り割に快適な環境に落ち着いた。
ところがである第七方面軍軍医部より通牒があり石橋隊は又々外出禁止である。マニラ丸船
上での下痢患者多発の為、マニラ丸に乗っていたもの全員伝染病の疑いで隔離されて了っ
た。
船上生活に比べれば此度は天国である。然し出てはいかんと云われると出たい。おまけに一
寸出れば旨そうなものがいやと云う程ある。バナナ、パパイヤ等果物の外中華料理も本場で
ある。甚だ無理である。全員元気回復である。然しどうしたことか下痢が仲々止まらない。全
員下痢が止まらないと伝染病の疑が晴れない。
(つづく)
87:マンセー名無しさん
08/03/23 23:17:20 iKx7YY7+
乙!
88:マンセー名無しさん
08/03/24 04:27:31 ngZ/48Ke
>>45
URLリンク(p2.chbox.jp)
これ?
89:泣けたのでコピペ
08/03/25 23:41:39 EnIOXEcK
可愛い奥様:2008/03/25(火) 22:40:39 ID:Kt2QWhkI0
今日何度か会ったことがあるんだけど
話こんだのは初めてのおばあさんに戦中戦後のお話を聞く機会が
ありました。
私が「靖国って馬や犬、鳥も祀られているんですね、驚きました。」と
話したら、
「私の父が馬を飼っていて赤紙が来て
馬を戦地に赴かせる為に貨物に乗せるとき、
馬が父の服をくわえて話さなかったのよ。
馬が戦地で死んだときは戦死の通知
が来たのよ」と話してくれて、思わず泣いてしまった。
今年は私があの馬の像ににんじんをお供えするからと思ってしまった。
それと、日の丸君が代の件も怒ってたよ。
アメリカは他民族国家で国旗や国歌を大事にするのに、
日本人はもっと大事にしないと!って。
満州にソ連が攻め入ってきたときは本当に悲惨で
今でもその時を思い出して眠れない人がいるんだって。
娘を連れて日本に帰る途中でソ連兵に集団でレイプされた
娘さんは、お母さんがその娘の将来を悲観して海に突き落として
殺してしまったそうです。
きっと恥という言葉でがんじがらめにされて正常な判断が
できなかったんでしょうね。
このお母さんを責めるのは簡単だけど、自分だったら
どうしたんだろう?と考えも考えきれない。
私達は年配の方にもっと戦後戦中の話を聞くべきだと思ったよ。
90:33
08/03/26 20:10:47 mf4mcPsN
私は先づ最初に第三航空軍司令部に報告と次の命令を受ける為出掛けねばならない。今は
足がある大倉上等兵の運転する側車で出掛けた。出掛ける前兵站で道は聞いていたが馴れ
ぬ所は道も判りにくかった。
司令部で参謀部に行き第36教飛石橋少尉以下百三十数名到着した旨を告げた。若い参謀
部員は一寸姿を消したがすぐ現れて、佐藤先任参謀が会うと云って居られるので一寸こい。
一寸こいにはあまりよいことはない。佐藤先任参謀は広い参謀部の一番奥で大きな机の前
に太った体をデンと据えていた。
少佐の参謀が直立不動で立っていた。佐藤参謀は赤鉛筆で少佐参謀が持って来た何かの
原案を直している最中であった。書類は真赤になっていた。少佐参謀への指示の声は大変大
声であった。私はこれは困ったことになったと思ったが帰るわけにもゆかなかった。
私は直立不動である。私は出来る丈大声で「第36教育飛行隊石橋少尉以下百三十○名○
月○日到着しました。人員、器材共異状ありません」聞き終るや否や「来かたが遅い」と倍位
の大声が返って来た。私はびっくりしたが部員の連中には驚いた様子が全々ない。聞きなれ
た声であったのかもしれない。それから奉天航空廠にて飛行機受領に始まりシンガポール到
着までの詳細を報告した。
報告が終るまで私は非常に永い時間の様に感じられた。佐藤参謀は半眼にてうなずきながら
聞いて居られた。報告が終って佐藤参謀は
「判った。大変御苦労であった。お前の部隊の飛行機は途中事故もなく全機無事マランに到
着している。安心して呉れ、もうこゝまで来れば安心だ。あとの航海は潜水艦の心配はない。
兵隊をよく休養させて、判ったな」
その声の何と身に滲みたことだろう。最初の大声からとても想像出来なかった。この佐藤大佐
は終戦後マレーで部下の責任を負い自決された。佐藤大佐の自決の真相は先年文芸春秋
の紙上に「五人の自決者」と云う題で詳細に報道された。深沢君がコピーしてマラン会員に渡
していたので読まれた方も多数居られると思う。
軍人として人間として尊敬に値する人物であったと其の印象は強烈である。このあと一度も接
する機会がなかったのを残念に思う。
91:33
08/03/26 20:29:56 mf4mcPsN
其の後数回第三航空軍司令部を連絡の為訪れた。仲々隔離状態は解除されない。全員は
相変らず下痢は止らないが元気である。小原曹長と笹生上等兵が入院することになった。私
はジョホールの病院へ、船舶司令部へ、第七方面軍軍医部へと多忙であった。
何度目であったか三航軍司令部を訪れた時、所要の為中尾中尉がカラン飛行場に来て居る
ことが判った。連浦以来数ヶ月振りに会うことが出来た。中尾中尉にも相談したと思うが、この
まゝでは何時まで南兵営に止め置かれるか判らない。どうかして脱出しなければならない。そ
こで私は脱出を強行することにした。
三航軍参謀部にジャワ行きの配船を強く希望した。参謀部員は貴隊は目下伝染病の為隔離
中であり、第七方面軍々医部の考えもあり乗船は見合わせたらどうかと云う。我々は目下至
極元気である。方面軍々医部の方は何とでもするから是非配船して欲しい旨強く申し入れた。
其の時は承知して呉れたか否か判らなかったが直ぐ乗船命令が来た。明日は乗船日である。
私は部隊に直に出発出来るよう指示して寝てしまった。
明くれば乗船日である。早朝私は第七方面軍の軍医部を訪れて三航軍の命令に依り本日シ
ンガポール出港ジャワへ向う旨報告した。軍医部では驚いた。私は軍医部長に呼ばれた。
軍医部長に同じ様に報告した。軍医部長は大変に腹を立てていた。「君の部隊は目下隔離中
である。出発を許可することは出来ない。だめだ」軍医部長は強硬であった。然し私は引き下
がらなかった。「部長殿、私は第三航空軍の隷下の部隊です、三航軍の命令に従わなければ
なりません。第七方面軍軍医部の命令に従うわけには参りません」
軍医部長は怒り心頭に達した様である。私は一生懸命であった。終いに「勝手にしろ、あとは
知らぬ」と云い置いて席を立った。私は"しめた"である。これで出発を阻む何物もなくなった。
急いで南兵営に帰り、善は急げ間髪を入れず自動車を連ねて埠頭へ向った。営門でぐずぐ
ず云っていたが無視してしまった。埠頭には五千屯程の貨物船が待っていた。
92:33
08/03/26 20:36:09 mf4mcPsN
乗船人員は我々だけである。問題はない。器材の積込みは直ぐ終った。人員の乗船、船上は
広々としている。何しろ我々だけなのだから。然し此の船は弾薬を積んでいた。弾薬の外は
我々の自動車だけである。一寸気持が悪い。然し一同開放感を胸一杯吸い込んだ。
そうだ、シンガポールに於けることで一つ書き落した。それは例の酒保品のことである。上陸
後私は早速貨物廠に酒保品の受領にトラックで出掛けた。貨物廠で相当量の酒保品を要求
した。係員は「行先はどちらですか」「ジャワだ」「あゝそうですか、もう少し御辛抱下さい。ジャ
ワに行けば何でもあります、此処はビルマ方面へ行かれる方が優先です」私はただ聞いてい
た。本当かなあ。
私の後から来たのはアンダマン諸島に行く部隊であった。係員はアンダマンと聞くや要求され
る品物以外にもこれがある、これもある、必要ならばいくらでもと思い切り支給しているのを見
た。私は要求を引き込めた。日用品の最小限を受領して帰隊した。兵隊さん達には誠に申し
訳ないと思いながら。
ジャワの天国ビルマの地獄とは既に耳慣れた言葉であった。ビルマ方面の方は航空、地上を
問わず御苦労でありました。それからシンガポールで私達は始めてバナナの味噌汁、パパイ
ヤの漬物を食べました。青いバナナをどうして食べるのか判らなかったが味噌汁のバナナは
甘くうまかった。
一寸横道にそれたが開放感一杯の我々を乗せた船は単独で静かに出港して行った。此度は
誠にのんびりした航海であった。船上は運動場の如き広さであった。船上は涼しかった。食べ
物も上等であった。何も言うことはない。おまけに敵の潜水艦の脅威は全くない。
不思議なことに下痢は一度に止まってしまった。下痢患者は一人も居なくなった。何一つ薬を
飲んだわけでもないのに。
(つづく)
93:33
08/03/29 15:58:58 uyItS8Ic
楽しき航海であった。警備兵として乗船していた海軍上等兵曹以下数名が居た。或る日その
内の一人が輸送指揮官、艦隊が見えます、ブリッヂに来て下さいと呼びに来た。此の船では
私が輸送指揮官であった。此処では輸送指揮官もへったくれもなかった。私はブリッヂに登っ
て行った。
水平線の彼方に数隻の軍艦の姿が見えた。船に備え付けの眼鏡で眺めた、どえらい戦艦が
見える。海軍上等兵曹は武蔵か大和か判らないが何れかであると云う。一万屯級巡洋艦らし
きものが二、三隻見える、駆逐艦が艦隊の周囲を回っている、空母もいる、帝国海軍健在な
りの感を深くした。然しこれが帝国海軍の最後の偉容であったかもしれない。
こんな気楽な航海の後ジャワ島タンジョンブリォークの港に着いた。沖に蓬来丸が上甲板を
海上に出して沈没していた。ジャワ攻撃の際今村大将が乗っていた船である。
我々の船は岸壁に着いた、外に入港した船はなく直に器材の揚陸、人員の上陸。簡単な手
続きを終え、兵站の指示によりジャカルタ市内ガンビルの兵站宿舎に自動車を連ねて出発し
た。タンジョンブリォークとジャカルタの間道路沿いに線路がある。全く平和そのものの田舎の
風景である。鉄道の線路の上で野生の猿が遊んでいるのが見えた。日本ではお目にかゝれ
ぬ平和なのんびりした風景である。
ガンビルの宿舎についた。町には物資があふれていると云う感じであった。果物は名前を知
らぬものばかり山の様に売ってある。安い。お菓子、何でもある。之また安い。シンガポール
の貨物廠で聞いたことはウソではなかった。これで皆安心したらしい。ガツガツしなくなった。
私には未だ仕事が残っていた。マラン迄の列車の手配である。バンドンの飛行団への報告で
ある。私は一日早くジャカルタを列車にて出発、バンドンに立寄り其の後ジョクジャカルタで後
から来る本隊と合流する様に計画した。
94:33
08/03/29 16:02:24 uyItS8Ic
先に出発した私はバンドンの飛行団司令部を訪れた。飛行団長は飛行機で出発の為飛行場
へ出掛られ留守であった。私は高級部員(中佐)に報告を終え帰ろうとした。帰ろうとした私は
当番に呼び止められた。団長が帰られたので来て呉れとのことである。飛行機故障の為出張
中止来隊されていた飛行団長に御眼にかゝった。私はびっくりした。連浦時代隣の宜徳の部
隊長であった田中大佐殿であった。連浦時代大分絞られた思い出が一度に蘇った。あゝ又こ
の南の果てで一緒になろうとは、実感であった。
ジョクジャカルタで後発と待ち合せて合流した。ジョクジャカルタの駅で売っていたユデ卵があ
まり大きいのでよく聞いてみるとアヒルの卵であった、少し色が青かった。始めて見るアヒル
のユデ卵だった、みんなで食べた。
列車は予定通りマランの駅にすべり込んだ、プラットフォームに迎えの連中の顔が見えた。駅
から飛行場まで15km。多分自動車で行ったと思うが記憶が判然としない。部隊に到着。営
庭に整列。部隊長八代大尉に到着の報告をした。
あゝこれでこゝまでの私の任務が完了した。私はほっとした。戦友の大歓迎をうけ本当に安心
した夜を迎えた。
私は心身共に疲労の極に達していることを自覚していた。立っているのも苦しかった。然し部
隊長には頑張って見せていたが、部隊長に「当分使いものにならぬなー。バトーにでも行って
静養してこい」と山の上の方に追い上げられた。甚だ不満であった。これは部隊長の想いやり
であったらしい。そこには高級ホテルと病院と温泉と高級レストランが共存していたがないも
のは酒と女であった。数日で心身共に健康を回復、部隊に復帰した。
誠に苦難のマニラ丸でありました。
(おわり)
95:33
08/03/29 16:07:33 uyItS8Ic
我が南方始末記
鈴 木 郁 弥
昭和20年6月某日、我々を乗せた汽車は静かにマラン駅プラットフォームを離れて行きまし
た。それはまるで、故郷を離れて何処か遠い地へ行く様な感慨を持たせる出発でありまし
た。
以前、日本の地を離れて、この南方へ行く時のあの感じと良く似ておりました。
汽車の窓から見えるマランの街の姿・・・・・家々の赤い屋根、ヤシの並木、教会の銀
塔・・・・・等が後へ後へと流れ去って行きました。毎日見ていたスメル山、ブタクの山々が少
しづつ遠ざかって行って仕舞いました。我々を今見送って呉れているこれ等のものに対して、
一生忘れる事の出来ない思い出が、この時私の頭に植え付けられたと思います。
又、このマランとの出会いも大変感激的のものでありました。「流れ流れて、南はジャワ
よ!」と歌った位しか、当時のジャワへの知識がなかった私は、この街の清潔な事、そして
街行く人々の表情の明るい事に驚きました。街の中央に在る広場、大王ヤシの並木道、整
然と立ち並ぶ民家、物珍しさはあってもこんなにも美しい街は外には余りないのではないか
と感じました。
赴任した飛行隊は、当初第36教育飛行隊でありましたが、後に第26練成飛行隊に改編さ
れた若々しい部隊でした。部隊長も飛行隊長も我々を短期間に仕上げる為に日夜懸命の努
力をされておりました、広い飛行場にある飛行機は、はるばる朝鮮の連浦より幾多の困難を
排除して空中空輸されたものです。又、整備隊の御苦労も大変なものでありました。一個の
部品もこの地では仲々手に入らない状況です、この様な環境の中で、我々も期待に副う可く
飛行訓練に精を出しておりました。
然し我々も若かった! 風に揺らぐヤシの樹間に輝く南十字星を見ては、青春の血も騒ぎ、
黒髪豊かなジャワ娘の姿態に接しては、ほのぼのとしたロマンスを想起する年令でありまし
た。が、現実に立ち戻れば、我々は今、このマランを出発して、チレボンにある第34教育飛
行隊に向う汽車の中に在ったのです。
96:33
08/03/29 16:14:24 uyItS8Ic
チレボンに到着したのは、翌日の朝だと記憶しております。チレボン興亜なる煙草の産地で
有名なこの町は、マランよりはるかに小さい田舎町でありました。駅からトラックで着いた部
隊営舎もマランに比べると大変見劣りがしております、それに誠に暑い所でした。飛行場も
ジャングルを切り開いて作った様なものです。飛行機の離着陸の時はもうもうたる土煙が立
ち昇ります。給与の方も悪いし外出先も大した所はなかった様でした。只だ一つ丈け良かっ
た事は、煙草とチョコレートの配給が非常に沢山ありました。
ここの部隊にはバンドンの第17教育飛行隊から来た特繰二期の同期生が十数名おりまし
た。彼等にしても涼しいバンドンからこゝに来てバンドンを懐かしがっている気持ちは我々と
同じものであります。我々もマランを懐かしみ、出来れば再びマランに帰りたいと思っており
ました。
然し、世は戦争中です。
或る日曜日にチレボンの町に外出してみました。煙草工場の大きな煙突の見える広場のベ
ンチで一休みしておりましたら、七、八才の女の子が近寄って来ました。この娘はこの町の
町長の娘であると言っておりましたが、習いたての日本語で上手に「真白き富士」の歌を私
に歌って呉れました。この時この女の子の目は大変澄んでいて、この国の将来を物語って
いる様に見えました。
七月になりますと我々はバンドンに集結を命ぜられ、いきなり第106教育飛行団々長の原
田中将より直接「北方圏転用空中勤務者」を命ずると言い渡されました。その命令下達の部
屋には白布を掛けたテーブルがあり、その上には既に別杯の用意がなされております。どう
見ても何か出陣式の様な感じがし背中に冷たいものがさーと走り顔に熱い血が上りました。
果せるかな! 同中将の音頭で乾杯した後に「日本内地特攻隊として、充分お国の為めに
やってもらいたい・・・・・・・・・諸官の武運を祈る」との激励の詞がありました。
(つづく)
97:マンセー名無しさん
08/03/29 18:04:21 8MpB6jdf
おつ
98:マンセー名無しさん
08/03/30 16:36:21 Kj5bl/Pz
乙です。
99:マンセー名無しさん
08/03/31 13:35:56 sQTta8gZ
米・英軍がドイツ・日本で行った強姦・輪姦
スレリンク(whis板)
336 :世界@名無史さん:2007/12/28(金) 12:20:02 0
なるほど、滅びの美学ですか?
民族浄化の脅しを受けて武装解除したとたんアメリカ兵やロシア兵に滅茶苦茶にやられましたからね
やつらからしたら負け犬に涙なんて観念はないのでしょうね
サイパン戦で生き残った田中徳祐・元陸軍大尉(独立混成第47旅団)の証言
・「米軍は虐待しません」の呼びかけを信じて洞窟から出てきた婦女子全員が素っ裸にされ、
数台のトラックに積み込まれた。「殺して!」「殺して!」の絶叫を残してトラックは走り去った。
・次には滑走路に集まった老人と子供の周りにガソリンがまかれ、火が付けられた。たちまち
阿鼻叫喚の巷と化した滑走路。我慢ならず我が兵が小銃射撃をしたが、米軍は全く無頓着に蛮行を続ける。
・火から逃れようとする老人や子供を、米軍はゲラゲラ笑いながら火の中へ蹴り飛ばしたり、
銃で突き飛ばして火の中へ投げ入れる。2人の米兵は草むらの中で泣いていた赤ん坊を
見つけると、両足を持って真っ二つに引き裂いて火中に投げ込んだ。「ギャッ!」といふ悲鳴を
残して蛙のように股裂きにされた日本の赤ん坊とそれを見て笑う鬼畜の米兵ども。
・こんなに優勢な戦闘状況にも拘らず、米軍は毒ガス弾(赤筒弾)攻撃まで仕掛けてきた。
・マッピ岬にたどり着いた田中大尉は、岩の間に一本の青竹を渡し、それに串刺しにされた
婦人を見た。さらに自分と同じ洞窟に居た兵士や住民が五体をバラバラに切り刻まれて倒れているのを眼前に見た。
『正論』平成17年9月号「NHKウォッチング」 中村粲・元獨協大学教授、昭和史研究所代表
361 :世界@名無史さん:2008/03/30(日) 10:10:56 0
>>336 URLリンク(en.wikipedia.org)
それなんとなく興味深いから、一応英版wikiにその出典を出して書いてみたが、すぐ消されるな。
単なる欧米人にとって都合のいいプロパガンダ記事に成り果てているよ。
一方日本版でも書いてみたけどまだ消されていないが。
100:33
08/04/02 20:20:59 BweHVWWT
この七月の時期では沖縄特攻作戦も同島の失陥で終り、遂には日本列島に接近しつつあ
る米機動部隊に対し、飛行機、舟艇による人爆攻撃が計画されて居りました。我々を含めて
ジャワ各地からの「北方圏転用空中勤務者」の結成式がバンドンで行われましたが、ジャワ
島以外でもマレー、シンガポールでも同じ事が実施されました。
今、その時の記憶が生き生きとよみがえってきます・・・・・ああ!これで異国の地に骨を埋め
る事がなく、緑り深き母国の海に自分の青春を投ずる事が出来るのだ・・・・・と喜びの心が
生じました。
いずれにしても、この戦さでは生き残れないのは先刻承知でありましたし、戦局が不利にな
ったこの時期、我々の如き特操出身のやることは只だ一つ、爆弾を持った飛行機をなんとか
操り、敵艦に体当り出来れば之に優る成功はありません。又、この様な覚悟を持って操縦を
志願したはずです。
戦後の調べで、飛び立って行った特操の数は三百人近くありました。そして、これ等の戦士
の霊は京都の護国神社や東京の世田谷観音寺に現在祭られてあります。
昭和18年、柏の第4航空教育隊に飛行兵として現役入隊した私は、郡山の第12航空教育
隊、更には高田の第13航空教育隊で対空無線を学んでおりました。学徒兵の第1陣として
同窓の学友達も各部隊に散っておりました。そして幹候合格の発表のあった日に、中隊長
より特操志願者は申し出ろとの催いがあり、私はためらわず真先きに手を上げた記憶があ
ります。その後、適性検査等になんとか合格し、宇都宮陸軍飛行学校で基本操縦を習い、
どういう訳かジャワのマランまで来てしまったのです。
それが又直ぐ、日本に帰らねばなりません。軍隊と言う所は全く当方の都合等は考えて呉
れない所です。とに角も、この時は日本に帰れると言う喜びと日本に帰れば最後だと言う心
の葛藤に悩まされたのも事実でありました。
101:33
08/04/02 20:25:14 BweHVWWT
七月の下旬、バンドン集結中のマランよりの転属者達は、夫々九七重、百重、双発高練等
に分乗してシンガポールへ向ってバンドン飛行場を離陸しました。機上から見える輸送編隊
の隊形は誠に見事なものでした。数えて見ると総数26機です。機内では各自、前記原田中
将より贈られた「必勝」の文字の書かれたハチマキを携行しておりました。
「さらば!ジャワ島よ!さよなら!」
自然と別れの歌が各自の胸の中で歌われました。既にこの時、マランは遠い彼方に去って
行って仕舞ったのです。
編隊はその翼に朝日を受けて綺麗に輝いておりました。今や、内地への輸送作戦は開始さ
れました。眼下には青々としたジャワ島の大海原が見え、上空所々にある大積乱雲が我々
を見送って呉れておりました。同日昼、シンガポールのカラン飛行場に無事着陸した我々は
第三航空軍司令部差し回しの便で宿舎の南明閣に入りました。
この南明閣の食堂で、こんな事があったのを記憶しております。
食卓でビルマ帰りの大尉殿と同席しました。その大尉殿は我々の方の献立を見ながら「貴
公達のは随分と豪華だな」と言われますので、先方のを見ると当方より可成り落ちています。
「宜しかったら、どうぞ、どうぞ」と差し出すと、彼は非常に喜んで「航空隊の給与は良かです
なー」と語っていたものです。
シンガポールには、二、三日居りましたが、その間、色々と街を見学しに行きました。丁度こ
の時にシンガポールには知人がいた事を思い出しました。マランへ赴任途中シンガポール
に着いた時の事、ある関係から石原産業のシンガポール支店長さんへの紹介状を持ってお
りました。お訪ねした結果、色々市内見物の便を計ってもらいました。若し居れば、当時のお
礼等申し上げたいと思い連絡したところ、私の事を良く覚えておられ、日本に帰るのなら、今
夜大いに飲みましょうと最後のシンガポールの夜楽しませて頂きました。あの方は今どうし
て居られる事でしょうか。
102:33
08/04/02 20:28:12 BweHVWWT
ジャワ軍票はシンガポールでも通用した様でした。日本への土産として革カバンを一つ買い
ました。之が後日復員船に乗る時に問題になったのでした。
当時のシンガポールはジャワと比較して何となく落ち着かない様子でありました。住民の眼
も大変反日的であり、物価も高く、消費物資もジャワより少ない様でありました。
突然、町中で平服の日本人に呼び止められた事があります。彼の説明によると、彼は特操
の三期との事です。折角日本より来たのですが訓練すべき飛行機が無い為め、情報機関の
仕事をやっているとの事でした。長髪平服で支那人街に接触しているそうです。中には支那
人の娘と偽装結婚しているものもいるそうです。
さて、シンガポールから仏印へ飛び立ちました。今度は編隊ではなく単機航法です。タイ湾
上空には時々英軍スピットファイアーが出るので編隊はヤバイとの事です。カラン飛行場で
百式重爆撃機に十二、三人づつ乗り込みますと機長が「皆さん、索敵の方をお願いします」
との事、「まかせとけ」とは言いましたが敵戦闘機に発見されれば一コロです。いさゝか心配
な飛行になりそうです。
丁度タイ湾の真中高度三千位に達したころ、後方索敵の同僚から「敵らしきもの1機」と伝送
がなされました。一同ぎょ!として示された方向を見ますと、高度五、六千、乗機の進度より
右120度、直距離約五、六千の上空を小型機が1機見られました。が、相手はこちらを知る
や知らずや南下して行ってしまいました。この小型機が日本軍のものなのか、又は敵機であ
ったのかは、神ならぬ身で未だ知り様がありません。
海上五、六百まで降りてきた百重からやっと仏印の海岸線が見え始めました。やれやれと
一同の顔にも血が上って着ました。然し、重爆と言う代物は着陸には厄介なものの様です。
旋回すると何となく眼が回りそうになります。矢張り、飛行機は一人乗りが一番性に合ってい
るなと感じました。
103:33
08/04/02 20:36:31 BweHVWWT
着陸した所はカンボチアの首都プノンペン飛行場でありました。こゝは可成り大きな航空基
地です。戦闘第50戦隊等が展開しておりました。暑さはジャワどころではありません。日中
34,5度の大変な所です。プノンペンの街から一里位の所でした。この基地には特攻宿舎と言
うものがあり、又、特攻食と言うものがありました。既に我々より先きに日本へ帰った連中が
ここを通過しますので、ここの飛行場大隊(第81飛大)は北方圏転用者の専属部隊の感が
ありました。時任少佐がこの飛大の部隊長でした。
ここで毎日内地からの迎えの飛行機を待っておりました。次々にMC20や九七重に乗り単
機で出発するのを見送りました。バンドンから来た同期の一部も出発しましたが、彼等は仏
印より支那大陸を飛び飛びにして上海に着き東支那海を渡って九州に飛ぶコースです。
彼等の中のある一機は夜間東支那海上空通過中、運悪く敵機動部隊上空に出て仕舞いま
した。その為め、敵艦より猛烈な対空射撃を受け、必死に逃げ切ったそうです。日本に帰る
事自体が容易な事ではありません。
終戦の月の八月になりました。
我々の乗る迎えの飛行機は未だに到着しませんが、その後も南方各地からの集結は続い
ておりました。その中には日本で別れて以来の懐かしい同期の者もおりました。
然しこの時期には、既に日本の中枢部でポツダム宣言受諾の準備が進められておりました
ので、我々の方へまでは手が廻らなかったと思われます。
八月十五日の暑い朝が来ました。
飛大本部より本日正午、第1種軍装にて通信室前に集合の命令が発せられました。天皇陛
下の玉音放送が日本から来るとのことです。この何日か前にソ連軍が満州を攻撃中とのニ
ュースも入っておりました。
暑い中、集った我々にはラヂオの雑音が大き過ぎてその内容は全く分りません。
解散した我々の間では、多分ソ連参戦の為め内外の日本将兵に対する激励の放送であろ
うと想像しておりました。
(つづく)
104:マンセー名無しさん
08/04/03 06:07:49 8hlEMNP7
乙であります
105:33
08/04/07 00:18:44 vivVeccD
ところが、八月十八日になりますと、ある通信社からの情報として日本は無条件降伏をした
事が知らされました。
そんな馬鹿な!今、我々は内地特攻隊としてこの地まで来ているのだ、その我々を放って
おいて日本内地が敗れたとは到底信じ切れません。
然し事実だったのです。
さて、そうなると我々は一体之からどうすれば良いのか?まさか、出て来たジャワに再び帰
る訳にも行きません。とに角も今は、第三航空軍か南方総軍の指揮下にあるらしい、そして
この飛大では客分である。色々と議論が百出しました。結局、この飛行場大隊に吸収される
事になり、飛大では特別攻撃隊だから特別の字を残して特別中隊及び特別小隊を編成する
事になりました。
この中隊及び小隊は総て飛行機操縦者からなっております。即ち幹候、特操、少年飛行兵、
予備士官等でした。特別中隊の隊長は幹候出身の渡辺中尉、本部員は幹候の七、八期が
当り、第1第2第3小隊長は特操の1期が3名に、小隊付きには特操2期が各小隊に2名づ
つ配属されました。全員で300名居たのではないかと思います。一方特別小隊は隊長に幹
候出身者がなり、後は全員特操1期と2期で50名位だったと記憶します。
宿舎の位置は中隊が陸軍病院附近、小隊はそれより少し飛行場寄りにあり、竹の柱にヤシ
の葉の屋根であり、中央が通路でこれの両側に50センチ高さの床があり、ビールビンの中
にガソリンを入れその口にボロ布を差し込み、火を付ければランプになるものを作りました。
然し、之は全く危険なランプで、倒すとそこ等一面火の海となり、一、二回大火事になった事
がありました。
戦争がいきなり終ったので、一週間位は各自ボーとなり、なにもやらずにぶらぶらばかりし
ておりましたが、之まで貯蔵してあったウイスキーやら甘味品を大配給して大宴会をやった
事もあります。そして飲むほどに酔うほどに色々計画予定も出ました。例えば、日本内地は
敗れたかもしれない、然しここ南方軍は健在である、南方軍隷下の飛行機500機、又、数十
万の兵力を集めて飽くまでも戦争を続行すべきだ!
106:33
08/04/07 00:22:12 vivVeccD
あるいは、日本国家百年の計の為め、全員山に入りゲリラとなり国家再興の捨て石となろう
ではないか。又、ある者は否、戦いは終ったのだから我々は早く日本に帰り、我々を待ってい
る同胞と共に国の復興に努力する事が天皇の御意思である等々・・・・・・・の意見が出ました。
実際には個々に又は数人単位で山に入った者がいた事も確かです。
之等の離隊者を連れ戻すべく、我々の何人かも山に捜しにいきました。
そして、連れ戻した者もありましたが、中には遂に帰らずにあの地に残った人のいる事をこ
の眼で見ております。
ともあれ、百八十度変針した我々でしたが、一応附近の警備やら治安維持の任務に従事し
ておりました。
某日のこと、英印軍の命令により日本軍飛行機を受領に行くから使用可能な状態にしておく
可しとの通信が入りました。その受領の日の事は今でも忘れ得ません。朝、数機の輸送機
がプノンペン飛行場に着陸しました。
日本軍用機の一式戦、九七重、百重等は既に翼の日の丸が塗りつぶされ英軍のマークが
画かれております。輸送機から降りた英軍パイロットが日本軍パイロットに機の諸元等を教
えられておりましたが、そのうちに1機の一式戦に英軍操縦者が乗り込みました。日本軍の
整備兵が車輪止めを外しますと機は直ちに地上滑走に入りました。
我々がかたずを飲んで見守る中を出発線より走り出した隼は滑走路の半ばで見事空中に
飛び上がりました。
不思議にもこの時、我々日本軍の飛行機が敵手に渡されたと言う惜しさは感じられません
でした。むしろ、失敗しないで飛んで呉れ、之は日本軍の一式戦なのだから大事にしてやっ
て呉れと言う気持ちで見ておりました。
次々と隼は何処かに行って仕舞いました。一方、重爆や輸送機の方がどうなったかは記憶
に残っておりません。多分、シンガポールへでも行ったのではないでしょうか。
107:33
08/04/07 00:24:44 vivVeccD
それから数日後、このプノンペン飛行場にMC20輸送機が1機、胴体に緑十字を付けて舞
い下りて来ました。たまたま、ピストに来たこの機の操縦将校は、私が宇都宮陸軍飛行学校、
金丸原教育隊に居た当時の教育隊長の清水千波大尉でありました。
「隊長!お懐かしい」、「おお!良く元気でいたな」と本当に感激の一瞬でありました。ビルマ
の空中作戦に重爆第98戦隊の中隊長として活躍された後、内地の教育隊長になられた、こ
の隊長は「身体を大切にな」と言って我々を送り出して呉れたのに、それがこのプノンペン飛
行場で再会するとは。
給油中のわずかな時間の話しに依ると、清水大尉は南方総軍の飛行班長をやって居られ、
総軍幹部と日本から来られた大命伝達使を乗せて、南方各方面に居る現地の司令官等に
天皇の意を伝えて、速やかに終戦業務に入る様との命令を持って飛んで来たとの事であり
ました。
いみじくも、戦後30年振りに又お目に掛る機会を得、現在72才のお年にかゝわらず、未だ
にレシプロ機の操縦桿を握りアメリカやヨーロッパにまで飛び続けて居る「飛行機野郎」の生
き方には誠に「空は男の行くところ」の感、大なるものを感じさせます。
さて、この時期この仏印の地も何となく騒々しくなって来ました、植民地仏領印度支那を再び
我が物にせんと上陸して来たフランス軍に対して、この仏印の諸国の民族独立の戦争が始
まりました。
プノンペン附近においても、ジープにフランス旗を立てたフランス兵の姿を見る様になり、原
住民との間でゴタゴタが起こり始まりました。この反抗運動に手を焼いたフランス軍はこの鎮
圧を日本軍に命じました。丁度、ジャワにおける終戦後の日本軍と似た立場にあった様で
す。
108:33
08/04/07 00:29:33 vivVeccD
べトミンのゲリラ活動は、山に隠れ町に潜んで仲々手強いものの様です。然しフランス軍の
命令に従わないと日本に帰ることが難しくなるとの状況判断から当飛行場大隊の特別中隊
にもゲリラ鎮圧の命令が来ました。
そこで、特別中隊の中で選抜された元特攻隊の人々(その数不明なるも百名位ではなかっ
たか?)は、使い慣れない三八銃を持って、第二グランドに狩り出されて行きました。私達は
それまで、小銃の実弾射撃等は10発位しかやっておりません。
一難去って又一難とはこんな様な状況の事を言うのでしょう。戦闘隊員は胸に何とも複雑な
思いを持って出発して行きました。然し、本気でやろうとは一人も考えておりません。フラン
ス軍は後方での督戦、こちらは銃を上に向けてポンポン、当たる訳がありません。又、ゲリラ
側も日本軍の強さを知っておりますから、まともに向って来ません。
フランス軍丈けがツンボ桟敷にいる状態です。・・・・今夜フランス軍を夜襲するから日本軍は
横に隠れていて下さい・・・・と言うゲリラ側からの連絡に、どっこい承知でこちらが退避して
いる間にフランス軍がやられたり、逆に日本軍から・・・・今夜あの部落をやるから、村から出
ていなさい・・・・等と連絡しドンパチをやってもゲリラ側の人的被害は皆無等と言う事がしば
しばです。
その中に、フランス軍にも日本軍のやる気の無い事が分り、むしろ武器をゲリラ側に渡され
ては危険であるとの判断から日本軍には間も無く協力解除になり中隊もプノンペンに帰って
来ました。然し、流れ弾に当って若干の負傷者も出ました。他の部隊では戦死者もあったと
聞いておりますが、大変気の毒な事でありました。
(つづく)
109:33
08/04/09 19:54:14 YIiefoix
20年の11月になって仕舞いました。
その頃になると、日本への復員の話しも除々に現れ始めました。そして或る日、第81飛行
場大隊はサンジャックに向って前進せよと言う命令がやって来ました。大隊は引越し準備で
大騒ぎしましたが、之で日本に帰れる希望が出て、先ず先発隊を出して途中の露営地の偵
察をなし、次いで、設営隊が出され露営地の設営がなされました。
この後、本体はこのプノンペンの地を徒歩或いはトラック、船で去って行き、こゝに日本軍の
サイゴン又はサンジャックに向かっての大移動作戦が開始されました。私はたまたま出発の
日に、胃ケイレンに苦しんでおりましたので、遂に本隊からは置き去りになり、数日後、患者
隊を編成してトラックにより本隊を追求する事になりました。
メコン河を渡る時などはトラックをイカダに乗せたりもしましたが道路面は大体良好で快適な
自動車行進が続きました。又、ある部落では支那軍の小部隊と出会いました。彼等の装備
は大変悪く兵員も疲れている様でした。この部隊は何処からやって来たのか分かりません
が、戦争も既に終わりましたので日本軍も支那軍もありません。我々はトラックの上からお
互いにニヤーと笑って別れて来た記憶もあります。
サイゴン附近までたどり着きますと本日は日本軍の降伏式を行い、武装解除をすると言う英
印軍の命令が出されておりました。我々通過部隊もその命令に従う事になり、その降伏式
場に行きました。
グルカ兵が自動小銃を持って我々を背後から警戒しております。式場中央のテーブルには
ユニオンジャックの旗が置かれております。日本軍は先任順に英印軍中佐の前に進み軍刀
をテーブルの上に置き敬礼をして降伏の印を示しました。
誠にこの時は、敗戦の実感を身を以って味合いました。
然し、英印軍中佐は次の様なことも言っておりました。「貴官等の日本刀の中に名刀があれ
ば、その刀の作者名と由来等を添付して頂きたい。英本国に持ち帰って大事に保管するで
あらう」・・・・・数振りの名刀も有った様でした。
110:33
08/04/09 19:58:51 YIiefoix
さて、丸腰になった我々は途中の中継地でやっと本体と合流する事が出来ましたが、この中
継地は先発した設営隊の努力で宿舎が出来ておりました。こゝが又大変な所で30センチ位
のムカデ等が出現する南方の秘処と行った所、サソリ、蛇、ムカデ、トカゲとの同居が続きま
した。
サンジャックと言う町は、サイゴンから南に下った所に在る、小型ながら綺麗な港町です。町
の前面が南支那海、後方には小山が横たわっております。家々はフランス風の石造りで、
割合暑さが少ない所でした。
我々の属する飛行場大隊の外にも各種部隊が沢山集結しておりましたが、一応こゝに駐屯
軍司令部を開設し復員までの間、我々はこの駐屯軍として移駐して来たのであり、決して捕
虜の扱いは受けておりませんでした。戦後の話しでシンガポールにおいては収容所に入れ
られ不当な扱いを受けた等があったそうですが、我々は使役程度の作業は命ぜられる事は
あっても、毎日の作業は全くありませんでした。
今でも記憶しております。最初にして最後の駐屯軍司令官は長久少将と言う可也りご年配
の閣下でありました。やや小太りな非常に温厚な方でした。
さて、司令官は決まったが、後の部員は之から決めると言う事で、先ずサイゴンの南方総軍
から来られた白川少佐を高級参謀にして各部隊から夫々の部員を集めた様でした。
ところで、時節柄司令官の副官にはプロよりもノンプロの方が之からは良かろうと言う事で、
我が特別小隊のT中尉(幹候)が選ばれました。T中尉は元教員をしていた事とて博学の誉
れ高く、後の日本軍の行動に大変良い影響を与えた様に思われます。
ある日、このT中尉が飛大にやって来て、今度英印軍との接渉の為め、司令部内に渉外班
を作る事になった。既にその班長には上智大学出身の大尉さんが承諾されたが、通訳(軍
属)を指揮する少尉2名を募集に来た。特操の中からこの際、皆の為めにやって呉れる者は
居ないだろうかとの話し。
111:33
08/04/09 20:03:43 YIiefoix
私はこの時、特別中隊で毎日ブラブラして居る事に飽き飽きしておりましたので、通訳は出
来ないが通訳を連れて相手の言う事を聞くこと位なら何とか出来るだろう、一つその渉外班
とやらに努めてみようと一番先に名乗りを上げました。もう一人は計らずも同期のI少尉であ
りました。
「貴様、英印軍の司令部等に行ったら、いじめられるに違いないぞ。止めにした方が良いん
じゃないか」と同期の者達が言っておりましたが「何に、今まで軍隊に入っていても、お手伝
い位しかしなかったから、之からは少し苦労もしてみるんだ」と翌日、私物をまとめてさっさと
渉外班に行って仕舞いました。
海岸に近い所にある司令部に行ってみますと、道の向かい側にユニオンジャック旗を立てた
英印軍司令部があります。前記の長久少将に申告を済ませますと「ご苦労だが毎日の定時
命令受領をやってもらいたい」との事です。
又、班長さんに挨拶を済ませ、二名一部屋の居室に落ち付きますと、食事係の当番さんが
大阪出身の人で、ありあわせの材料で天ぷらだとか、得体の知れない刺身を作って呉れて
大変お世話になりました。矢張り司令部ともなると、本物の板前さんが居るものだと感心さ
せられました。
さて、翌日から早速仕事です。渉外班通訳係等と言うと聞こえは良い様ですが、実際に仕事
をして見て驚きました。さしずめ、高等小使の如きものです。毎朝八時、英印軍司令部の連
絡将校の部屋に行き、日本軍への命令受領が第一の仕事でした。
そして、連絡将校は純英国人のウォーリー中尉・・・・この人は全く英国士官学校のバリバリ
と言った感じで、真面目一点張りの紳士・・・・彼の前に私と通訳とが並び「グッド モーニン
グ サー」とやりますと、彼(煙草好き)はマドロスパイプを口にしたまま、英国の何処かの方
言らしきもので、ブツブツと話します。通訳(大体新聞社の特派員)に、「ヤツは何んて言って
るのか」と聞くと、「さー」と首を振り、「ワンス モアー プリーズ サー」と、もう一度ゆっくりや
ってもらはないと、理解に苦しむ状態でした。
112:33
08/04/09 20:05:29 YIiefoix
その命令も、「本日は道路補修の為め、日本兵300名をどこそこへ、荷揚げの為め100名を
岸壁へ出せ」等と言ったものから、時々無理難題を言う事もありました。例へば、「今日午後
5時までにベッド100台持って来い」とか、「黒いクツズミを500個とどけろ」・・・・・こちらも仕
様がないので、「まあ、やって見ましょう」等と答へておいて、日本軍司令部に帰り参謀殿に
之々しかじかの命令でありますと伝えますと、参謀殿は「クツズミなんかとてもこの町には売
っていない」どうしたものかと困って仕舞います。「仕方がないから、各部隊に聞いてみよう」
と言う事になり、その方の担当者が走り廻る次第です。
結局、英印軍は日本軍をこのまま黙って帰国させるのは面白くないから、いじめてやらうと
言う魂胆です。時々このウォーリー中尉の代りに、○○シンと言う印度人の中尉が出る時は、
大変親日的で「ビルマで戦った日本軍は驚く程強かった」等お世辞を言って呉れました。彼
等には、矢張り印度独立の考へが有って、日本軍を直接困らす事はしなかった様です。
南方総司令官の寺内元帥が、英軍マウントバツテン大将の所へ行かれたのも、このサンジ
ャックの丘から、その乗艦を見る事が出来ました。ある人が、「寺内元帥を送る歌」を作り、
我々の合唱で元帥を見送った事もありました。
21年の正月を迎え、各部隊も落ち付きを見せ、漁ろう班、農耕班、製塩班等を作り、自活の
道を歩み始めました。主食の米は、まあなんとか有りましたが、副食は自活で取るより外に
方法が有りません。ある隊では試食班なるものを作りました。班員は皆健康な者からなり、
彼等の任務は樹からぶら下がっている特大豆とか、名も知らぬ雑草を狩り、炊いたり、煮た
りして先ず一番目に試食する事です。そして彼等が中毒にならなければ、その雑草類は副
食として合格です。然し、誠に生命がけの仕事でした。
一方、漁ろう班の方でも、海蛇の如き大魚を捕獲したり、農耕班では大根を立派に作り、そ
の中に豆腐屋、酒屋等も出現しました。
(つづく)
113:マンセー名無しさん
08/04/11 20:51:51 ZoszpBdN
良スレ支援です
114:33
08/04/12 17:34:26 0Wbtfps2
2月のある日、町を歩いていると、ベトナムの男が近寄って来て「アナタ コンヤ ワタシウチ
クル シヨウガツ ゴチソウ タクサン」と呼びかけて来ました。その晩、彼の家に行きます
と六、七人の男女が待っていて、珍しいベトナム料理に感激しましたが、帰る時、その中の
一人の男が「アナタ ニホン カエラナイ ノコル アナタ キリコミ オシエル オカネ タクサ
ン オンナアゲル」
要するに、私が彼等に切り込み訓練をやって呉れればゴホウビをやると言う事です。御世話
になって申し訳ないが、私は飛行機の方なので切り込みは出来ないと断りますと「ワカツタ
ニホンジン ダレデモ キリコミ デキルト オモツテタ」と笑って呉れましたので、ゲリラに引
ぱり込まれず、やれやれと思いました。
4月になりますといよいよ日本からの復員船が港に入って来ました。もうこの時点では渉外
班も解散になって原隊に帰っておりました。
4月末ごろ、乗船地の海岸に集合、ここで仏軍の持ち物検査を受けました。彼等は我々を並
べておいて不規則にカバン等を取り上げて仕舞います。私の立っているところで丁度止った
フランス兵がいきなりカバン(しいがポールで購入)を取ろうとしましたので「ノウノウ アイム
リーゾン オフィサー(私は連絡将校である)」とどなりますと、その剣幕に驚いたのでしょう、
黙って行って仕舞いました。
いよいよ、サンジャック、否、南方と別れる時が来ました。
昭和21年5月1日、我々マラン第26錬飛からの転属者等四千名を乗せたリバティ船は静
かにサンジャックを離れて行きました。遠去かって行く仏印の山々丈けが我々を見送って呉
れました。マランと別れたのとは、どこか感じが違っておりました。「さらば!南方よ!」と
我々の眼はこの南の大空と大海原をじっと見つめておりました。
走馬灯の様にあの戦中の色々な想い出が現れては消えて行き、船は一路懐かしの日本に
向って進んで行きました。
(おわり)
115:33
08/04/12 17:47:42 0Wbtfps2
特別攻撃隊(七生昭久隊)始末記
松 尾 周 作
皆さん御承知の通り、我が二十六練成飛行隊は、マラン基地に於て任務を続けて居りまし
たが、昭和二十年に入りますと、各地の戦線は日に日に劣勢の情況を増して行きました。即
ち聯合軍の主攻撃経路であったニューギニアーフィリッピンー沖縄は遂次敵の手中の陥り、
七生昭久隊が編成されました七月は、本土上陸を目指して各地に猛空襲を加えて居りまし
た。ビルマ方面ではラングーンも陥落して居りまして、我々は敵中に取り残された状況でし
た。
航空要員教育も、特別操縦見習仕官二期、少年飛行兵十五期の教育が終って、その人達
を送り出して、次の教育要員は到着しません、部隊の航空機には逐次爆装が施されて居り、
何れ我が部隊は特攻隊に改編されるものと覚悟して、専ら超低空爆撃訓練に励んで居りま
した。私たちの部隊は何の方面に転用されるかが、一つの関心事でありました。
村上君の記録によりますと、昭和二十年七月二十六日に攻撃隊編成が下令され、北部スマ
トラ島メダン市近郊クワラ飛行場に転進が命令されて居ります。私は部隊長編隊に続いて
第二梯団として七月二十九日、約一年三ヶ月駐屯して居りました懐かしのマランを出発しま
した。清水(現小谷野氏)曹長、小池曹長、和田軍曹、寺地軍曹、多田伍長、以下五名と行
を共にしました。
経路は、マランーバンドンーパンカルピナンーシンガポールークアラルンプールと転進した
様に記憶して居ります。当時の思い出の一つとして、確かクアラルンプール飛行場に到着し
ました時、飛行場大隊長の某少佐が、礼装して出迎えて下さり、先方から先に敬礼されたの
には一寸とまどいました。先方は既に我々の任務を理解され、我々を英霊として遇されたの
でしょうか、恐縮しつつも何か複雑な気分がしました。
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クワラ飛行場に到着しますと、当地は整備補給の為の基地で更に北方のロクセマウエ飛行
場に前進するよう命ぜられました。
ロクエマウエ飛行場は全くの前線飛行場で何の設備もない草原でした。ニッパ椰子で造られ
た兵舎は屋根から月の光が指し込んで来ます。あゝこれで我々は年貢の収め時に到着した
のだな、と考えると感無量なるものがありました。
後年私が調べました戦史によりますと、此の附近から、第三航空軍隷下で七生昭道飛行隊
が、七月二十六日マレー半島の北西部プーケット島沖合いに侵入して来た英海軍機動部隊
に三機突入して居ります。
七生昭久飛行隊の任務は、現在のスリランカ、当時のセイロン島北部の軍港ツリンコマリー
からシンガポールに来襲する、英海軍機動部隊を体当り阻止する事でありました。
ロクセマウエ飛行場に待機中、何らかの作戦指導があるものと期待して居りましたが、特別
その気配もありません、その都度上級司令部から、期日、目標、機数が指示されて突入す
るのでせうか?
私は八代部隊長と、出撃順序等について相談しました思い出があります。また私達は未だ、
二式単高練で二百五十瓩爆弾を吊って離陸した事もありません。私は部隊長に願い出まし
て一回テスト飛行をして見ました。その状況は次の通りでした。
先づ爆装して離陸距離を出来る丈け取る為に、地上滑走に移りましたが、爆弾の重さで円
滑な地上滑走が出来ません。それに胴体が何だか破れそうな異音がするのです。これでは
いかんと、先づ爆弾を出発地点に運んで貰って装着と同時に離陸する事にしました。
(つづく)