07/08/13 06:41:04 xYbIqA6z
ネーション・ステートに「市民宗教」は本来必須のものでしょう。私自身は「靖国」
をそういったネーション・ステートを創るための礎になった人々を祀るものだと認
識していますから、現実に遺族がいなくなっても日清、日露の戦没者を祀ることは
重視すべきだと思っています。無論大東亜戦争もまたそういった一環として捉える
べき(例えおろかな負け戦であったとしても国民の義務として戦ってくれた人たち
には感謝をすべきですから)だと思います。「指導者」については、無能な士官の
戦死者をどう扱うかということに類することで、例え無能だったとしてもそれで
自らの命を落としたのであれば、その時点で一緒に祀るべきでしょう。客観的に
見ればあの戦争を望んでその方向に引きずったのは(第一次大戦のヨーロッパと
同じく)国民の側だったという認識を私は持っていますから。
それから「政教分離」というのは実はネーションを超えた普遍宗教からの分離とか、
国民としての一体性を阻害する宗派的要因から中立であるべきということから確立
されてきたという面もあると思います。その点から言えば「市民宗教」としての
靖国は神道や皇室と同じくそれ自体「大いなる空虚」であることから適切だと思い
ます。つまり神道は他の宗教に対して排他的ではありませんから。
もう一つ(というか普通言われている)自由主義という点から政教分離を根拠づけ
るということについて言えば、自由主義それ自体が「戦う一宗派」であるというこ
とは考えるべきだと思います。つまり政教分離が積極的な意味を持ったのは自由主
義を確立すべきだという局面においてであって、むしろそれが「当たり前」となっ
た時にはもはやそれを厳格に考えるべき必要性もないかと思います。ここら辺は例
えばトルコにおける「世俗主義」のあり方と比較したらどうでしょう。あそこでは
未だイスラム教の持つ意味が大きいがゆえに、あえて世俗主義を主張するのもそれ
なりの意味があるかと思いますから。もっともそれも一般国民がそれから離れよう
とする時、これからどう位置づけられるべきかというのは難しいところですね。