07/12/01 16:29:59 EZsVW+c9
水子の譜を図書館で借りてきた。
重要と思われる部分をコピペしときます。
当時の中国を、私たちは歩き続け、野宿をしながら日本へ向かった。
途中、私は多くの死者たちに出会わなけれぱならなかった。餓えと栄養失調で歩けなくなった者は置き去られた。
病気の孤児たちを助けるゆとりは大人たちにはなかった。それはみんなが明日はわが身であったからでもあろう。
私もその紙一重のところで孤児たちの群れの中にいたはずであった。 ・
三十数年経っても私の体の中には、あの引揚げの途中で出会った死者たちのゆがんだ顔があって、時として私をおびえさせる。それは生理的なもののようでもある。
福岡に住みはじめた頃、観光で志賀島行の船に乗って博多湾を通った時もそうであった。
私は海を見ながら、一緒の船に乗っていた多くの孤児たちの戦後を思った。戦争が終わって久しいが、その傷をなま身で受けた人びとはいまもそれをひきずりな鑓ら生きている。
私はこの四年ほどの間、引揚げてきた孤児たちの現在を少しずつ訪ねて歩いた。
福置には、当時政府が行なっていた引揚援護局とは別のところで、民間の人びとの力で引揚援護活動が行なわれていた。
それは泉靖一氏嬢中心になった在外同胞援護会救療部の仕事である。その活動は主にいちばん力の弱い子どもたちや婦女子の救護にむけられていた。
そして、病気にかかった引揚孤児のためには、そこで治療保育を行なう「聖福寮」を、婦女子の救護のためには「二日市保養所」という施設を作り、地道な活動を展開した。