07/01/21 20:09:17 GRVeOfT1
■志羅紀の地理的位置■
中国の史書『後漢書』の記録である。馬韓については「その北は楽浪と南は倭と接し、辰韓の西にあり」と
記している。また弁韓についても、「辰韓の南に(弁韓は)あり、その南また倭と接す」とある。
『三国志』も同じく、「馬韓は南で倭と接す」とある。さらに「弁辰は十二国のうち、讀盧(どくろ)国は
倭と界を接す」とある。
「辰韓の南に弁韓あり、その南また倭と接す」
後漢書のこの記述は、ひじょうに興味深い。
・辰韓は北にある。
・弁韓は辰韓の南にある。
・弁韓の南に倭がある。
この記録は、稲飯命が建国した志羅紀(シラキ)の位置を語っているのである。
辰韓→ ワイ人の国(後の新羅=シンラ)。3世紀に南下して志羅紀を侵略する。
弁韓→ 倭人の国。志羅紀。神武天皇の皇兄=稲飯命が建国。天日矛命の国。
倭→ 弁韓(志羅紀)の南方にある倭人国・ヤマト。日本国。
こういうことなのだ。
やはり、志羅紀と新羅は別の国なのである。シラキの王子=天日矛命が倭人であることが、『後漢書』の記録によって
証明された。天日矛命の子孫が神功皇后である。神功皇后の新羅征伐は、ワイ族(朝鮮人)に侵略された先祖の祖国=志羅紀
(シラキ=弁韓)を解放するための聖戦だったことが明らかになった。