08/04/18 16:24:49 rcg7e+Ly
チベット仏教を営むチベット人は、本当に自分たちの存続を望んでいるのか?
もしそうであれば、ダライ ラマは現在以上の活動を起こすと推察する。
ダライ ラマのお言葉でこんなことがある。
「我々の仏教は自分以外の幸せを望むことに真意がある」
日本人が、仏教を尊敬する原点だと感じた。
私も、真言密教の僧侶であり現在は、個人的な宗教活動をしているが。
中国のように、民族奴隷を当たり前のようにしていた時代に、日本は行動を起こした。
結果的にそれは戦争という形になったが、私の経験していない時代のことだ。
チベット仏教の真意は、自分たちが生き残る為ではなく、人間の価値基準の存続を願っているのだと思う。
環境破壊を起こして、利益を追求すれば健康障害を起こす。
こんな当たり前のことを、利益になる犠牲とされてきた。
人間の進む道が、"痛み"を忘れた社会になるのであれば、今の中国を非難することはできない。
しかし、チベットで行われている侵略を、″痛い″と感じるのであれば、それが人間にとって大切なことだと。
その、真意を世界に尋ねているのだと思う。
だから、チベット人としてではなく、人間として痛みを判る存在に成長して欲しいのだと感じる。
それは、日本人が植民地支配を容認しなかった"痛み″の理解と同じだ。
お金が絡めば、営利をむさぼるかのように考えているだろうが、社会にはお金が存在する。
これだけ進歩した情報化社会になったからこそ、チベットをどう感じるかで人種への問いかけはできるのだが・・・
過去のように、テレビも無い時代には、お金を掛けて資源を費やし、現代へ繋げる必要があったのだろう。
ここで、私たちがチベットで行なわれている古い時代とそっくりな侵略を、″痛い″と感じられるか?
そこに、ダライ ラマ以下チベット民族は全てを賭けているのだと思っている。
チベットに敬意を表したい。
我々の精神が成長することに、死力を尽くしたい。