06/05/15 23:41:28 kbbeo+Qr
1145 「三国史記」<十三年(512)夏六月、于山国帰服>干山国、・・・或いは名、鬱陵島≠現・竹島
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1471 「成宗実録」<于山、武陵二島・・・>半島南端・江原道からの視線であり≠現・竹島
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1438 韓国、鬱陵島に空島政策を始める。(以降450年)
1481 「東国輿地勝覧」<一云武陵 一云羽陵・・・>砂浜・樹木が見える、干山鬱陵本一島≠現・竹島
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※「于山國」=「大きな山国」(“于”=“大きい”の意)、「鬱陵島」=「ぜいたくで大きい丘の島」
(“鬱”=“ぜいたくであること”、“陵”=“大きい丘”の意)で、「于山國」=「鬱陵島」である。
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1614 「芝峰類説」日本人が鮑・若布(ワカメ)採取目的で磯竹島(鬱陵島)の占拠を始める
1617 米子の回船問屋が鬱陵島を発見。
1618(元和4年) 大谷・村川両名に幕府から竹島(鬱陵島)へ渡海免許。以降80年日本が鬱陵島を実効支配。
「竹島渡海由来記拔書」 URLリンク(toron.pepper.jp)
1643 鬱陵島に続き、竹島も発見。以降、現・竹島を鬱陵島渡航への寄港地、漁労地として利用。
遅くとも1661年には大谷、村川両家が幕府より現・竹島を拝領。
1656 『輿地志』に「一説に于山、鬱陵本一島」。現・竹島の記述なし。
1667 隠岐島巡察報告「日本の乾(北西)の地、此の州を以て限りと為す」鬱陵島北限で現・竹島日本領
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