【国連】竹島不法占領非難決議可決 3【安保理】at KOKUSAI
【国連】竹島不法占領非難決議可決 3【安保理】 - 暇つぶし2ch6:竹島年表
06/05/15 23:41:28 kbbeo+Qr
1145        「三国史記」<十三年(512)夏六月、于山国帰服>干山国、・・・或いは名、鬱陵島≠現・竹島
           URLリンク(toron.pepper.jp)
1471        「成宗実録」<于山、武陵二島・・・>半島南端・江原道からの視線であり≠現・竹島
           URLリンク(toron.pepper.jp)
1438        韓国、鬱陵島に空島政策を始める。(以降450年)
1481        「東国輿地勝覧」<一云武陵 一云羽陵・・・>砂浜・樹木が見える、干山鬱陵本一島≠現・竹島
           URLリンク(toron.pepper.jp)
※「于山國」=「大きな山国」(“于”=“大きい”の意)、「鬱陵島」=「ぜいたくで大きい丘の島」
  (“鬱”=“ぜいたくであること”、“陵”=“大きい丘”の意)で、「于山國」=「鬱陵島」である。
URLリンク(koreanlanguagenotes.blogspot.com)
1614        「芝峰類説」日本人が鮑・若布(ワカメ)採取目的で磯竹島(鬱陵島)の占拠を始める
1617        米子の回船問屋が鬱陵島を発見。
1618(元和4年)  大谷・村川両名に幕府から竹島(鬱陵島)へ渡海免許。以降80年日本が鬱陵島を実効支配。
           「竹島渡海由来記拔書」 URLリンク(toron.pepper.jp)
1643        鬱陵島に続き、竹島も発見。以降、現・竹島を鬱陵島渡航への寄港地、漁労地として利用。
           遅くとも1661年には大谷、村川両家が幕府より現・竹島を拝領。
1656        『輿地志』に「一説に于山、鬱陵本一島」。現・竹島の記述なし。
1667        隠岐島巡察報告「日本の乾(北西)の地、此の州を以て限りと為す」鬱陵島北限で現・竹島日本領
           URLリンク(toron.pepper.jp)

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06/05/15 23:42:39 kbbeo+Qr
1692(元禄5)   朝鮮人漁民が「竹島(鬱陵島)」に出漁を始める。
1693        日本船が朝鮮漁民2人を連行(安龍福事件)。安の現・竹島韓国領虚言がいつの間にか韓国史実に。
1696        幕府「竹島(鬱陵島)」への渡航を禁止。鬱陵島は韓国領で決着。現・竹島には言及なし。
           URLリンク(toron.pepper.jp)
宝暦年間51-64 「竹島図説」に「隠岐国松島」から40里に「竹島」と記述。現・竹島は隠岐の国に属していた。
1770        『旅菴全書』「彊界考」の<按ずるに、輿地志に云う、「一説に于山、鬱陵本一島。」而るに諸図志を
           考えるに、二島なり。一つは則ちその所謂松島にして、蓋し二島は倶に是れ于山国なり。>を底本
           に、『東国文献備考』「輿地考」が <輿地志に謂う、鬱陵、于山皆于山国の地。于山は即ち倭の
           所謂松島なり>  URLリンク(toron.pepper.jp)
           安龍福事件(1693)で、<安龍福証言「松島即ち于山島」>の曲解証言(『粛宗実録』)で知った、
           「松島」名を古来の『輿地志』の于山に強引に結びつけたものと思われ。もともと松島(現・竹島)の
           所在を未把握のため、その後「松島」「竹島」名は鬱陵島付属小島(現竹嶼)に収斂され「松竹島」に。
           URLリンク(p2.chbox.jp) [42-43]
           長久保赤水「日本輿地路程全図」。「隠州視聴合記」からも引用。長久保は鬱陵島を日本領と誤認。
          URLリンク(toron.pepper.jp)
1785       林子平「三国通覧輿地路程全図」。「竹嶋」を<朝鮮ノ持也>。当時の竹嶋は鬱陵島のこと。

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06/05/15 23:43:22 kbbeo+Qr
1787        フランス船が鬱陵島を発見。ダジュレー島と命名。89年イギリス船も発見しアルゴノート島と命名。
           同じ島だが経緯度の違いで別の2島化。日本寄りにダジュレー、朝鮮寄りにアルゴノート島となり、
           ダジュレーが松島に、アルゴノートが竹島に。1854ロシア船の測定でアルゴノートが不正確と判明。
           1849フランス船[リアンクール]号竹島を発見。54年ロシア、55イギリス[ホーネット]。一時3島併存。
           1870年代アルゴノート消滅。1900年代ダジュレー(or松島)、リアンクール(orホーネット)で確定。
           シーボルトがダジュレーを松島、アルゴノートを竹島にしてたが、アルゴノート消滅で竹島も消える。
           URLリンク(toron.pepper.jp)
1801(享和元年) 「長生竹島記」にも、松島をもって「本朝西海のはて也」
1828(文政11年) 江石梁編述「竹島考」が現・竹島に関する、かつてより更なる詳細描写。
1836(天保7)   「竹島」での密輸事件で、死罪申し渡し書に「松島への渡海の名目を以って竹島へ渡り・・・・・・」
1849(嘉永2年) フランスの捕鯨船リアンクール号竹島を発見
1858        ロシア、愛琿条約で清国から黒龍江以北の地を奪う。
1860        ロシアが北京条約で沿海州獲得。
1861        ロシア軍艦が対馬を占領。英国の抗議で撤退。樺太・千島・北海道にも触手。

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06/05/15 23:44:15 kbbeo+Qr
1867        勝海舟編纂の「大日本国沿海略図」は3島併存。
           アルゴノート(竹島=架空の島)、ダジュレー島(松島=鬱陵島)、リアンクール(現・竹島)。
           URLリンク(toron.pepper.jp)
※以上、誤解、間違いから大混乱が生じ、文献上の島名の取り扱いに注意が必要に。
1870(明治3年) 「朝鮮国交際始末内探書」に「竹島 松島 朝鮮附属ニ相成候始末」
          “松島は、竹島の隣島・・・。これまで掲載した書類もない” 松島≠現・竹島。2つの島とは、
          架空のArgonaut(竹島)とDagelet(松島=鬱陵島)であり、≠竹島(旧・松島、Liancourt Rock、Hornet)。
          URLリンク(www.geocities.jp)
1875       江華島事件。朝鮮開国。開化派・独立党が日本に接近。
          日本統治以前の韓国は絶望的な奴隷社会。
          URLリンク(p2.chbox.jp) [46-71]
1876       日朝修好条規。閔氏一族は当初改革派であり日本と連携して諸改革に取り組む。
1877       太政官指令「日本海内竹島外一島~~本邦関係無之義」*外一島=現・竹島との証拠なし。
          URLリンク(toron.pepper.jp)
          URLリンク(toron.pepper.jp)
          URLリンク(toron.pepper.jp)
          URLリンク(toron.pepper.jp)
※「松島の議」「松嶋巡視要否の儀」現・竹島は日本領と認識。ただ「現竹嶼→松島、現鬱陵島→竹島」解釈も存在。

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06/05/15 23:45:05 kbbeo+Qr
1880       「軍艦天城松嶋調査」 軍艦天城が調査を実施。「松島=鬱陵島、竹島=一個の岩石」と認識。
          URLリンク(toron.pepper.jp)
          これまで政府が「松島」と判断してた島は鬱陵島であり、竹島と判断してた島が竹嶼だったと判明。
1882[5]      韓国・李奎遠が鬱陵島調査するもその属島の認識は竹嶼までで現・竹島は存在に気付かず。
           欝陵島最高峰聖人峰より「四望し、海中の先に一点の島嶼の見形無し」(『鬱陵島検察使日記』)。
          日記で付属島名(非・岩礁名)は竹島(竹嶼)と島頂(観音島)の2島のみ。00年勅令内容を類推させる。
          URLリンク(toron.pepper.jp)
1882[7]      壬午政変。急進的な改革への守旧派の暴動勃発。政府や日本人を襲撃。大院君が復活。
          清国と日本が派兵。大院君を追放。日本勢力は駆逐され、閔氏らの事大党[大(=清)に
          仕える党の意]は清の支配下で政権維持を図る。日本は金玉均らの独立党(開化派)に。
          URLリンク(64.233.179.104)
1884       甲申政変。清仏戦争で清が敗北したのを機に、金玉均がクーデターで事大党政権を転覆
          させたが、清軍の介入で3日天下。金は日本に亡命。
          URLリンク(64.233.179.104)
1885       天津条約
          URLリンク(toron.pepper.jp)

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06/05/15 23:47:24 Z90Rr1Xq
1894[3/28]   朝鮮守旧派、金玉均衡を上海に誘い出し暗殺。
1894[7]      日清戦争
           URLリンク(ja.wikipedia.org)
1895[4/17]   下関条約で韓国が中国から独立。
           URLリンク(ja.wikipedia.org)
    [4/23]   露・仏・独、三国干渉
           三国干渉後にロシアが旅順租借、以降要塞化。ロシアの満州進出が進む。
    [7/06]   閔氏一族が露公使の指図でクーデター、親日派を一掃。日本公使は大院君と組み閔氏殺害。
1896[2]      露・水兵の後押しで反日クーデター。高宗王は以降1年間、避難先のロシア公使館で過ごす。
           URLリンク(64.233.179.104)
1899        「大韓地誌」韓国領域を東経124度30分~130度35分とし、竹島を領域外 ※竹島は東経131度52分
           URLリンク(bbs.enjoykorea.jp)
1900(明治33年)韓国・禹用鼎が鬱陵島周辺を調査/6月に報告書を提出。現・竹島への言及なし。
           中国で義和団事件勃発。以降、ロシアが満州を占領。
           URLリンク(ja.wikipedia.org)
           URLリンク(64.233.179.104)
   [9/23]    韓国「皇城新聞」「付属する小六島の中で、最も顕著な島は、于山島と竹島」。現・竹島は無し。

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06/05/15 23:48:00 Z90Rr1Xq
   [10/25]   報告書を元に韓国、勅令41号を発布。「石島」記述があるが、禹の報告書からして≠現・竹島
          URLリンク(p2.chbox.jp) [38-39]
          URLリンク(toron.pepper.jp)
          URLリンク(toron.pepper.jp)
1901       「韓海通漁指針」(01年脱稿03年刊)「韓人及び本邦漁人は、これをヤンコ島と呼んで」
          URLリンク(toron.pepper.jp)
1903       ロシアが韓国から龍岩浦を確保。日本に対面する鎮海湾進出も狙うが拒絶される。
          URLリンク(64.233.179.104)
          URLリンク(toron.pepper.jp)
          URLリンク(64.233.179.104)
1903        隠岐島民の中井養三郎らが現・竹島に漁舎を建ててアシカ漁。
1904[2/06]    日露戦争勃発~05[9/5]
           URLリンク(ja.wikipedia.org)
   [2/23]    日韓議定書
1904[7/05]    鬱陵島に望楼建設、同島と朝鮮・竹辺湾を軍用海底電信線で結ぶと決定。
           望楼は8/3着工、9/2稼動。電線は9/8~9/25。
   [8]      第1次日韓協約(≠外交権剥奪。日本から財務・外務顧問派遣。1905[8]の第二次日英同盟
           第三条に韓国外相が駐韓イギリス公使と日本公使に抗議した事実あり。)

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06/05/15 23:48:31 Z90Rr1Xq
   [9/25]    韓国で「独島」名の発生が確認される。軍艦・新高の日誌に「韓人これを独島と書き・・・」。
           勅令(1900)で鬱陵島付属小島「石島(ソクト)」が訛りトクドとなり、地元で勝手に現・竹島名に
           流用?「独島(トクド)」名が沈興沢の事実と異なる出鱈目報告(’06)でいつの間にか全国区化。
          URLリンク(p2.chbox.jp) [40-41]
   [9/29]    中井養三郎、内務・外務・農商務省に「りゃんこ島(竹島)領土編入並に貸下願」を提出。
   [11]     日本軍艦対馬、現・竹島に望楼建設可能と確認。
           政府に「多数の鬱陵島の住民は、毎夏同島に上陸し、小屋をたて附近において
           漁業に従事する」むね報告。ここで“鬱陵民”=隠岐→鬱陵島→現・竹島。韓人は和布刈りonly。
1905[1]      閣議でこの無人島を竹島と命名して本邦所属、島根県隠岐島司の所管とする。
   [2]      島根県知事、島根県告示第40号で竹島の名称とともにその所属所管を明らかに。
           韓国皇帝、日露戦さなか、ロシア皇帝に密使を派遣。
   [4]      密使派遣の事実が露見しはじめ、激怒した日本、韓国への保護権確立を閣議決定。
           URLリンク(64.233.179.104)
   [5/17]    島根県、竹島を隠岐国四郡の官有地台帳に登録
   [5/27]    日本海海戦
   [6/05]    島根県知事、中井らにアシカ漁を許可。

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06/05/15 23:49:13 Z90Rr1Xq
   [6/13]    軍艦橋立を竹島に派遣、望楼建設の詳細な調査。[7/25]望楼建設着工、[8/19]活動開始。
           URLリンク(64.233.179.104)
   [8]      島根県知事松永武吉、随員3名とともに海軍用船京都丸にて竹島視察
   [9/5]     日露の講和成立。
   [10]     海底電信線が鬱陵島→現・竹島→松江に敷設([10]着工、[11]完了)
   [11]     第2次日韓協約(外交権剥奪)
           URLリンク(72.14.207.104)
1906[3]      竹島(独島)視察 島根県第3部長神西由太郎外43名。日本の竹島編入を聞き及び、
           欝陵島郡守・沈興沢が<本郡所属の独島・・・>と欝陵島管轄の江原道府にいい加減な報告。
           これが韓国文献上「独島」の最初で、韓国報道で編入措置への不満が生まれたのは「本郡所属」
           との誤れる表現が端緒で、第二の安龍福的倒錯。しかし韓国本国では現・竹島を把握できず。
           URLリンク(toron.pepper.jp)
1907        「大韓新地誌」韓国領域の緯度経度に竹島が含まれず
           URLリンク(bbs.enjoykorea.jp)
1907[7]      第3次日韓協約(内政権剥奪)
1910[8]      韓国併合 URLリンク(toron.pepper.jp)
1939[4]      島根県隠岐郡五箇村議会、竹島を五箇村の区域に編入することを議決
1940[8]      島根県、竹島の公用を廃し、海軍用地として舞鶴鎮守府に引き継ぐ。

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06/05/15 23:49:47 Z90Rr1Xq
1946[1]      連合国軍総司令部の訓令で竹島は日本の行政権から除外。
1947        「朝鮮常識問答」韓国領域=東経124度11分~130度56分23秒。※竹島は東経131度52分
1948        「朝鮮常識」国土の最極東=東経130度56分23秒 鬱陵島 竹島(Chukdo)
           URLリンク(bbs.enjoykorea.jp)
1951[3]      サンフランシスコ講和条約最終草案をアメリカが韓国へ提示。
   [7]      日本放棄領土をもって建国領土となす韓国は、日本の放棄対象に竹島も列挙するよう要求。
   [8]      米国は竹島が日本領土との認識を示し、韓国要求を拒否。
           URLリンク(64.233.179.104)
1952[1/12]    サンフランシスコ平和条約の発効3ヶ月前に韓国政府が突然李ラインを宣言、竹島をその中へ。
           韓国政府、「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示。
   [2/8]     日本政府、韓国に抗議。
   [4]      サンフランシスコ平和条約発効。
           条約発効後、米国は日本に対して射爆撃場として竹島の提供を求め、翌年3月まで使用。
1953[2/14]    第一大邦丸の日本人漁労長が韓国艦の銃撃で射殺される。(第一大邦丸事件)
           URLリンク(encyclopaedicnet.com)
           李ライン廃止(65年)までの抑留者数・拿捕された船の数および死傷者数 抑留者数:3929人
           拿捕された船の数:328隻 死傷者数:44人。抑留被害者は、日韓漁業協定が成立する
           1965年まで抑留され、韓国に人質として利用された。その年月、最大13年。
           抑留者解放のため日本はのちに在日朝鮮人犯罪者472人を仮釈放し、在留特別許可を与えた。

16:名無しさん@お腹いっぱい。
06/05/15 23:50:23 DbVcAihX
1953[4]      韓国「独島義勇兵」が竹島に上陸。
1953[6]      島根県が県漁民に対し、竹島に関する漁業許可権を下す。
           島根県、海上保安庁共同で竹島を調査、韓国人6名に対し退去命令、領土標識(木柱)を建てる。
   [7]      海上保安庁の巡視船、竹島で韓国の官憲から発砲を受ける。韓国、竹島に領土標識を建設する。
1954[2]      日本外務省の覚書 1954年2月10日付亜2第15号。
           7月頃より、竹島の東島に韓国警備隊員(警察)が常駐、宿舎、燈台、監視所、アンテナ等を設置。
   [9]      日本政府、竹島紛争を国際司法裁判所に付託するよう、韓国に提案。[10]韓国政府が拒否。
1965[2]      日韓基本条約の調印。竹島問題は紛争処理事項とされる。


2005[3/16]    島根県議会、竹島日本帰属100周年記念に「竹島の日」制定条例案を可決。
2005[4/15]    2005年版外交青書において、竹島領有権主張を改めて明記。
2006[4/14]    日本が韓国に対抗したIHO海底地名登録のための竹島近海海洋探査計画が露見。
           韓国が物理的妨害を公言。
2006[4/22]    韓国は名称提案せず、日本は調査中止~EEZ交渉を5月中に再開で合意。
2006[4/26]    政府、韓国の竹島“実効支配”について、「不法占拠」との表現を徹底する方針を明確化。
2006[5/12]    政府、竹島を「遅くとも17世紀半ばには領有権を確立~」と閣議決定。

17:名無しさん@お腹いっぱい。
06/05/15 23:51:01 DbVcAihX
不法占拠以降、日本政府は毎年3月、竹島に対する領有権を主張する口上書(Verbal Note)を韓国政府宛てに発送。
毎年一回、日本の巡視艇が竹島近海に“侵入”し、それに対し韓国空軍がスクランブルをかけ、
相互に抗議の応酬を交わすことが外交上定例化しており、韓国の時効成立による領有権確立は阻止されている。

「「独島は日本の領土」毎年 口上書を発送」
URLリンク(66.102.7.104)

竹島に関する近代年表
URLリンク(64.233.179.104)
竹島=独島年表
URLリンク(www.han.org)
URLリンク(66.102.7.104)

18:名無しさん@お腹いっぱい。
06/05/15 23:52:10 DbVcAihX
URLリンク(blog4.fc2.com)
(略
むしろ、竹島は韓国のものだと主張した李承晩大統領に対して、アメリカ合衆国・国務次官補ディーン・ラスクから
韓国大使へ書簡が送られ(1951年8月10日)、その中で「日本が「朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、ドク島
およびパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原および
請求権を、一九四五年八月九日に放棄したことを確認する」と改訂するという韓国政府の要望に関しては、
合衆国政府は、遺憾ながら当該提案にかかる修正に賛同することができません。(略)独島、又は竹島ないし
リアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人島である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部
として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐支庁の管轄下にあります。」とあります。
少なくとも当時のアメリカは竹島を日本領と考えていたものとみられます。以下も参考にしてください。

電報
駐日政治顧間代理(シーボルド)から国務長官へ
     東京一九四九年十一月十四日
秘密
四九五、バターワースへ。マッカーサー元帥と私は、貴殿の十一月四日け書簡とともに送付された十一月二日付
条約草案、安全保障条項が入る予定の第五章を含まないものに対し個別に注意深い検討を加えた。マッカーサー
元帥は次のような意見を提出した。(中略)以下は、我々が極めて重要であると考える条項に関する我々の予備的
コメントである。

第六条 リアンクール岩(竹島)の再考を勧告する。この島に対する日本の領土主張は古く、正当と思われる。
安全保障の考慮がこの地に気象およびレーダー局を想定するかもしれない。(後略)

北東アジア課ロバート・A・フィアリー氏による日付のない覚書
           〔ワシントン〕
秘密
合衆国が準備した対日条約に関する原則の表明に対しオーストラリア政府が提出した質間に対する回答(中略)

瀬戸内海の島々、隠岐列島、佐渡、奥尻、礼文、利尻、対馬、竹島、五島群島、琉球諸島最北部および伊豆諸島、
いずれも古くから日本のものと認められていたものであるが、これらは日本によって保持されるであろうことが
考えられている。(後略) 

19:名無しさん@お腹いっぱい。
06/05/15 23:53:06 DbVcAihX
ys:櫻井よしこwebサイト! 2005年04月09日
「 米国の力を借りて『竹島』を自国の領土としたい韓国の昔も今も変わらないその手法 」
『週刊ダイヤモンド』    2005年4月9日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 587
URLリンク(blog.yoshiko-sakurai.jp)
韓国の駐米大使であった梁佑燦(ヤンユチャン)氏は、51年7月19日、ジョン・F・ダレス国務長官顧問を訪問し、
日本が放棄すべき領土に「独島」を加えてほしいと要請した。ダレス顧問は、「その島は日本が朝鮮を併合する
前から朝鮮のものであったか」と尋ねた。梁大使は「そうだ」と答え、ダレス顧問は、もしそうであるなら、
独島を加えるのには問題はないと述べた。
米国はその後調査を行ない、梁大使の説明が事実とは異なることを突き止めた。同年8月10日付の書簡で、
米国は韓国の要請に正式な回答を出した。「われわれの情報によれば(独島は)朝鮮の一部として扱われた
ことが一度もなく、1905年頃から日本の島根県隠岐支庁の管轄下にあります。この島は、かつて朝鮮に
よって領土主張がなされたとは思われません」というものだった。以上の内容は、国立国会図書館参事の
塚本孝氏が「中央公論」2004年10月号に報じた。

20:名無しさん@お腹いっぱい。
06/05/15 23:54:10 DbVcAihX
 李ラインは、設定後から米国、英国、中華民国により国際法違反と批判されたが、・・・
URLリンク(blog.goo.ne.jp)

【竹島問題】米国、朝鮮戦争直後に『竹島は日本の領土』と一方的に結論[3/27]
スレリンク(news4plus板)
URLリンク(news.naver.com)
URLリンク(tech.sub.jp)

(一部抜粋)
『バン・フリート特命報告書』

報告書によれば、アメリカと日本が平和協定草案を作る際、韓国が独島領有権を主張したが、アメリカは独島
の統治権は日本にあると結論を下した。これにより日本が所有権を放棄する島々の中に独島が含まれ
なかったと言うのだ。
報告書は「アメリカはこの島を日本の領土だと思っているが、論難に介入されることを避けて来た」とし、
「アメリカはこの論争が国際司法裁判所(ICJ)に回附される事が適切であると言う立場を韓国政府に非公式的
に伝達した」と記録した.

報告書はこれと共に、我が政府が独島領有権主張の根拠にしている『マッカーサーライン』に対しても
認めていないと記録している。
報告書によると、韓国政府が1952年に日米平和協定(サンフランシスコ講和条約)にマッカーサーライン
を含ませて、独島付近での日本漁船の操業を永久に阻もうとしたが、この様な措置はアメリカが支持
する国際法の原則と矛盾して(てっく注:「するので」の間違い)韓国政府の要求を拒否したと言うのだ。

アメリカは韓国政府に操業線の有効性を認めないと言う立場を通告し、国際法違反だと抗議したと言うのだ。

21:名無しさん@お腹いっぱい。
06/05/15 23:58:20 0bP4N7tH
「独島は日本の領土」毎年 口上書を発送」
URLリンク(japanese.chosun.com)
ハンナラ党の鄭文憲(チョン・ムンホン)議員は21日、日本政府が毎年3月には独島(トクド)
に対する領有権を主張する口上書(Verbal Note)を韓国政府宛てに送っていると明らかにした。
鄭議員によると、この口上書は「在大韓民国・日本国大使館は大韓民国外交部に対し、
竹島(独島の日本式名称)が歴史的にも、法的にも日本固有の領土ということを明らかにする。
大韓民国は竹島に対する不法な領有を中断することを要請する」という二つの文章からなる。
韓国政府はこれを文書台帳に記録・保管している。また、これに反論する韓国側の
外交文書を毎年発送している。

竹島(独島)という領土問題の対立点および判断する道筋と、「実行支配」
URLリンク(toron.pepper.jp)
なお、実効的支配を認めるには「平和的、継続的」であるかどうかである。
日本政府が領有権の抗議をしているので、現在の韓国による竹島占有は実効的支配の証拠とはならない。

国際社会は、既成事実による紛争解決を断固拒否している
URLリンク(toron.pepper.jp)
このような原則の確認・証拠の検討を通じ、国際法的に竹島が明瞭に日本の固有の領土であり、たとえ今後韓国
が現在のような支配を継続したとしても、それは「紛争の存在が明らかになった時点で当事国が自己の立場を
有利にするために行った行為」であり、決して領有権は韓国に移らないと言えます。

「時効取得」は、国際的に領土を取得する場合にあり得る1つの方法に過ぎず、国際法学者の多くに受け入れら
れたものでないうえ、いわゆる「時効取得」の原則に基づいて判決の下りた国際判例もない。ましてや「時効」
自体に、「連続的に、妨害を受けることなく」国家権力を行使するという基本的原則がある。
URLリンク(www.pekinshuho.com)

22:名無しさん@お腹いっぱい。
06/05/15 23:59:01 0bP4N7tH
AERA 2005年4月4日増大号
   ・・・・・・
・・・元和4(1618)年に米子(島根県)の町人村川市兵衛、大谷甚吉に対し、徳川幕府は「竹島」への渡海免許を出して
いるが、当時の「竹島」は無人化していた鬱陵島[ウルルンド]を指し、日本漁民が鮑を採取していた。
 江戸時代に今日の竹島は「松島」と呼ばれ、「竹島」への渡海の途中に船が立ち寄っていた。元禄5(1692)年に朝鮮
人漁民が「竹島」に出漁を始め、翌6年に日本船は朝鮮漁民2人を捕らえて連れ帰り、鳥取の藩庁に訴えたことから
日朝間の外交問題となった。幕府は元禄9年、「無用の小島の故をもって好みを隣国に失する。計の得たるに非ず」
として「竹島」への渡航を禁止した。だが、「松島」は宝暦年間(1751~64年)の「竹島図説」に「隠岐国松島」から40里
に「竹島」がある、と書いているなど日本では隠岐の国に属すと認識されていた。天保7(1836)年に「竹島」での交易
が発覚した浜田藩(島根県)ぐるみの密輸事件(家老2人など多数が切腹)では浜田の廻船問屋、会津屋八右衛門の
大阪奉行所の死罪申し渡し書に、
「松島への渡海の名目を以って竹島へ渡り・・・・・・」
 とし、「松島」へ行くなら鎖国令に触れないとの認識を示している。
 明治になって「松島」が竹島となった原因は、長崎のオランダ商館付の医師シーボルトが1840年に刊行した日本
地図で鬱陵島を「松島」と誤記したためらしい。

23:22
06/05/15 23:59:34 0bP4N7tH
 一方、韓国側は15世紀以降の文献に出る「于山島[ウサンド]」「三峯島[サンボンド]」が竹島(独島)に当たる、とする。
たとえば「新増東国輿地勝覧」に「于山島 鬱陵島」の項目があり「二島は県の真東の海中にあり」とするから、これ
だけ読めば、于山島は今日の竹島に思える。だがその少し後に「一説に于山鬱陵本一島」との記述があり、地味が
豊かで竹もネズミも大きいなどと書く一方、不毛の岩だけの竹島に関する記述は全くなく、鬱陵島しか見ていない
ことが分かる。
 太宗実録の1417年の部分にも、「按撫使金麟雨[あんぶしキムリンウ]が于山島より還り土産の大竹、水牛皮を
献じた。島の戸数15戸、男女86人」というから于山島は人の住めない竹島のことではないようだ。
 三峯島についても「賦役を逃れ三峯島に潜む者が多い」など鬱陵島と考えられる記述が少なくない。竹島を独島
と呼び始めたのも20世紀になってからだ。
 日本は1905年1月28日の閣議でこの無人島を竹島と命名して本邦所属とすることを決めた。その2年前から隠岐
島民の中井養三郎らが漁舎を建ててアシカ漁をしていたが、どの国からも抗議はなく、国際法上、無主の地を
占有したと認められたためで、同年2月22日、島根県は隠岐島司に竹島を所管するよう告示した。

24:22
06/05/16 00:00:04 0bP4N7tH
 今日の韓国は「日本に外交権を奪われており、抗議できなかった」
 として「日本の侵略」とする声が高いが、中井らが漁舎を当てた1903年は日露戦争の前年でロシアの勢いが強く、
韓国皇帝は親露的で日本は影響力を失っていたから、島を韓国が支配していれば当然抗議したはずだ。
 韓国が外交権を全く失ったのは日露戦争後の1905年11月の第2次日韓協約で、1904年8月の第1次日韓協約
では、韓国は日本人の財務顧問と外国人外交顧問(日本外務省に雇われていたアメリカ人)を受け入れ、外国
との条約締結など重要外交案件は日本政府と協議することが決まっていた。だが、もし韓国領の島を日本が
領土に組み込めば異議を唱えることはできたはずだが、記録はない。
 帰属関係を決める最終的文書であるサンフランシスコ平和条約を見ても、日本に分があるように思われる。
1951年の同条約は「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島[チェジュ]島、巨文島[コムンド]、鬱陵島を含む
朝鮮に対するすべての権利、権原および請求権を放棄する」と定めている。韓国は独島も入れるよう米国に
求めたが、拒否された。

25:22
06/05/16 00:01:07 0bP4N7tH
 終戦直後の46年1月29日の連合国軍総司令部の訓令で竹島は日本の行政権から外されたが、これは後に
日本に返還された奄美諸島、小笠原諸島、沖縄と同様で潜在主権は日本にあり、52年4月の対日平和条約
発効後、米国は日本に対して米国の射爆撃場として竹島の提供を求め、翌年3月まで使用した。
 韓国は52年1月、周辺の公海上に「李承晩ライン」を設定して竹島をその中に入れ、65年6月の日韓基本条約
の調印までに日本漁船328隻が拿捕され、抑留された漁民3929人、死傷者44人が出た。韓国は54年8月、
竹島に灯台を設置し、警備隊を置いたため、日本は9月に竹島問題を国際司法裁判所(ICJ)に付託しようとした
が、これには双方の同意が必要で、韓国は提訴を拒絶した。
   ・・・・・・
 竹島問題は時折噴火する火山のような危険をはらむ。双方が友好関係を保ちつつ、問題を解決する公明正大
な方法はICJに決めてもらうことだろう。訴訟に敗れた側も「裁定」に従って「潔い国」との名誉を得ることができる。
提訴に応じない側は法的に弱みがあることを内外に示す結果となる。
   ・・・・・・

26:名無しさん@お腹いっぱい。
06/05/16 00:42:48 3DkKe61Z
2004年12月16日 【沖ノ鳥島】の国際法上の地位について(視察報告会より)
URLリンク(www.nippon-foundation.or.jp)
>国際法における「島」の制度については、新しい海の秩序を纏めた国連海洋法条約を1982年に採択した
第三次国連海洋法会議で提案されたものの内容を大きく分類してみると、

(1)「島」を何らかの基準によって分類して、その基準によってそれぞれの島に異なる地位を与えようとするもの
(分類派)*と(2)島に差別を設けずに、すべての島に同一の地位を与えようとするもの(一括派)**、

の二通りの立場に分けることが出来る。いずれの提案でも、領土として認められる島がその周囲に12海里の
「領海」を持つことが出来るとする点では同じであるが、第一の、島に分類を設けようとするものは、それに
よって、周辺海域に排他的経済水域・大陸棚を持てる島と、もてない島とに分類しようとする立場であり、
第二の、島に同一の地位を与えようとするものは、すべての島に周辺海域に経済水域・大陸棚の設定を
認めようとする立場である

>このように、会議における議論は二つに分かれて、相互の立場からの応酬が繰り返される中で、
島をめぐってさまざまな国の利害が対立していることを顕著に示した。しかし、結果的には、「島」の定義の
中に、その形状、大きさ、人口の多寡などの要素を一切考慮しないことになった。

>そしてまた、そのような島がどのように周辺海域を決定することが出来るかについても、従来から
認められてきたように、「島の領海、接続水域、排他的経済水域および大陸棚は、他の領土に適用
されるこの条約の規定に従って決定される」(121条2項)こととなったのである。その限りでは、
島の定義と地位については、一括派の立場が基本的・原則的に承認されたといえる。


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