08/07/14 12:53:15 ZErNgcai
>>620
ああ、ごめん。でもグラバーはスコットランド系のフリーメイソンの疑惑が… 証拠はないらしいが
グラバーと坂本龍馬は、本当にフリーメーソンだったのか(歴史) / ヒロさん日記
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グラバーが長崎に訪れたのは1859年9月で、当時弱冠21才。4年後の25才のときに、
豪邸「グラバー邸」を完成させた。グラバーは終始一貫して、徳川幕府打倒を唱えていた。
バックについていたのは、アヘン戦争の仕掛け人でも知られるジャーディン・マセソン商会である。
1863年に、グラバーの手引きで、長州5人組がイギリスに密航。1865年には、薩摩藩17人を
同じくイギリスに密航留学させる。グラバーとフリーメーソンを軸に、明治維新前の数年の動きをまとめると、以下のようになる。
■■年表
1862年・・・・西周と津田真道がオランダに留学。
1863年・・・・長州藩の伊藤博文、井上馨ら5名がイギリス留学(5月)。
1864年・・・・4ヵ国(英仏蘭米)の下関襲撃計画で、伊藤と井上が急遽帰国(6月)。
西(10月)と津田(11月)がフリーメーソンに入会。龍馬が行方不明(11月)。
1865年・・・・薩摩藩の五代友厚、森有礼、寺島宗則など17名がイギリス留学(4月)。
龍馬が再登場(5月)。西と津田が帰国(12月)。
1866年・・・・薩長同盟(2月)。
1867年・・・・津田真道が『泰西国法論』を発表、船中八策(7月)、大政奉還(10月)、龍馬暗殺(12月)。
1868年・・・・明治維新。
グラバーは倒幕派であり、長州と薩摩に「ヨーロッパの現実」を見せるべく、密航留学を斡旋する。
一方、オランダでフリーメーソンに入会する西周は、徳川幕府の政治顧問である。本来ならば、相容れるわけがない。
が、フリーメーソンとなった西・津田は、パリで薩摩藩士と合流している。そして坂本龍馬には、
1864年11月より6ヵ月間の消息不明の「空白」がある。この空白期間に、龍馬もヨーロッパに渡り、
グラバー主導の明治維新の「打ち合わせ」が進んでいたのではないか、という疑惑である。