09/11/17 22:58:29 RiDi1Vnu
稲田朋美弁護士、不滅の裁判記録その①
百人斬り裁判
昭和十二年、南京攻略戦のさなか当時の毎日新聞に二人の少尉の写真と百人斬り競争の
記事が掲載され、その記事が原因で戦後その二人の少尉は戦犯として処刑された。
その後昭和四十七年に本多勝一記者が朝日新聞紙上に中国の旅という連載で、
その百人斬り競争の記事を紹介した。
それから大分経ってから二人の少尉の遺族が稲田弁護士を立てて本多、朝日、毎日を
名誉毀損で訴えた、これが百人斬り裁判である。
稲田弁護士の主張は武装している敵に向かって日本刀で突撃して百人も斬れない、
だいいち日本刀にはそんな耐久力はない百人斬り競争というのは戦意高揚のためのつくり話だ。
だからそんなつくり話を紹介した本多は名誉毀損になるというものであるが、
新聞記事を引用しただけの本多氏が名誉毀損になるかは疑問だが、百人斬り競争つくり話説については
一見もっともらしく今でも信じている人が多い、しかし裁判では百人斬りがあったいう証拠と
して本多氏と朝日新聞はそれぞれ「志々目証言」と望月五三郎著「私の支那事変」という本を
提出してきた、志々目証言というのは志々目彰氏が野田少尉の講演を小学校で聞いたという
その内容は「実際に突撃して斬ったのは四、五人しかいない占領した敵の塹壕にむかって
ニーライライとよびかけるとシナ兵はバカだからぞろぞろと出てくる、それを並ばせて
おいてかたっぱしから斬る。」「私の支那事変」の内容は
「このあたりから野田、向井両少尉の百人斬りが始まるのである・・略・・
両少尉は涙を流して助けを求める農民を無残にも切り捨てた・・」
本多と朝日新聞の主張によれば百人斬り競争というのは戦闘中の出来事ではなく
無抵抗の捕虜や罪のない農民を殺したというのである。
もちろん稲田弁護士は当時小学生が聞いた証言や二百箇所も間違いのある本は信用できないと
必死に否定しようとしたが認められず、結局、志々目証言は信用できる百人斬りはウソとは言い切れない
よって名誉毀損は成立しないと最高裁で確定、稲田先生敗訴してしまった。