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人々は己を倨傲だ、尊大だといつた。實は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、
人々は知らなかつた。勿論、曾ての郷黨の秀才だつた自分に、自尊心が無かつたとは云はない。
しかし、それは臆病な自尊心とでもいふべきものであつた。己(をれ)は詩によつて名を成さうと
思ひながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交つて切磋琢磨に努めたりすることをしなかつた。
かといつて、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかつた。共に、我が臆病な自尊心と、
尊大な羞恥心との所爲である。己(をのれ)の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て
刻苦して磨かうともせず、又、己(おのれ)の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として
瓦に伍することも出來なかつた。己(おれ)は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚と
によつて益※(二の字点、1-2-22)己の内なる臆病な自尊心を飼ひふとらせる結果になつた。
人間は誰でも猛獸使であり、その猛獸に當るのが、各人の性情だといふ。己の場合、
この尊大な羞恥心が猛獸だつた。虎だつたのだ。
(中島敦『山月記』より)