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心の中での姦淫
道徳的・倫理的な基準を厳密にしていくと、われわれはついに行動ばかりか思考、
感情、空想の内容にまで責任を問われることになる。
「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しか
し、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中で
すでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出
して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あな
たにとって益である。(マタイによる福音書、五・二十七-二十九)」
この戒めを、文字どおり実行したクリスチャンはほとんどいない。欧米において、
両眼を備えたまま成人できる男子は皆無に近いはずだからだ。ひょっとすると、すべ
てのクリスチャンが偽善者なのかもしれない。偽善者にならないためには、彼らは、
自らの罪深さをしょっちゅう表明しなければならないことになる。自分たちだけだと
不公平と思うのか、この千年余り、人類全体が罪深い存在だとプロパガンダし続けて
きた。余計なお世話である。
さて問題は、姦淫という行動だけでなく、その想念にまで宗教的・倫理的な追及が
及んだことである。おそらく、この二千年、地獄には満員御礼の札がぶらさがりっぱ
なしであろう。
イエスないしパウロは、ユダヤ教の厳格主義の適用を内面にまで浸透させたのであ
る。もちろん「愛」と贖罪という中和剤と抱き合わせではあったが、原始キリスト教
にはじまる追及の手は、確実にわれわれの内面にまで伸ばされた。これで困るのは、
われわれの内面にわきおこる情念や想像が、われわれの思いどおりにならないことで
ある。
情欲も空想も、意図的に作られるというより、むしろ勝手に自然発生してくること
のほうが多い。そこまで責任を負わねばならないとすると、われわれは常時、なにか
を思う寸前にその内容を察知し、それがよからぬことであれば自覚することを制止し
なければならなくなる。