08/05/24 18:37:48 Uu+xCuIB0
人間に意思決定の自由があるかないかは肯定、否定、中間論があるが私は否定説をとる。
従って、刑法においては違法(法益侵害)はあろうとも、
責任(反規範的人格態度に対する道義的非難)という概念は処罰する側からの自己満足の概念であり、
処罰される側には意思決定の自由がない以上、「殺さないことも選択できたのに、なぜ殺すほうを選択したんだ。」などと言っても無意味。
そもそも、あの時点での福田には犯罪をしないという脳の情報処理による行動は期待しえなかったのだから。
それが当方が福田を非難しない理由であり、福田を非難できない以上、死刑の選択もしない理由だ。
将来的な改善は福田の持って生まれた人格と今後の福田のあみだくじの線(福田の脳の情報処理)次第だが、終身刑導入を持って社会防衛、福田の再犯の可能性は塀の中で完結する。
例えば、サカキバラは家庭から出て、医療少年院、少年院の生活で改善し、そこで暖かい人との出会いもあり、人格が変わった。つまり、あみだくじの線がサカキバラを違う方向へと導いたのだ。
もちろん、また、何かの線がサカキバラを犯罪へと導く線になりうる。だが、それは人間になら誰にでもありうることなのだ。俺にも、君にもあみだくじの線は殺人者への流れを作りうる。
当然、ここには経済的余裕が必要となるが、死刑囚100人の日本で、一人年300万円としても3億円で足りる。日本の国家予算から見ればチリや埃程度の金額。国民一人当たり年間3円の金額。
感情的に許せないという反論があろうが、上記のとおり、福田に意思決定の選択の余地がなかった以上、福田の不幸なあみだくじの因果の流れに同情こそすれ、非難するのは酷だ。
永山が兄弟は犯罪者にならなかったのに、永山だけが犯罪者になったから不幸な家庭環境は原因とならないとか、不幸な家庭環境でもまっとうに生きているから云々という反論もあるが、全く反論になっていない。
あみだくじの線は一人一人違うし、スタートライン(持って生まれた)人格も人間は皆違う。
あみだくじのスタート地点と線の数は人の数だけあるし、人間が導かれるあみだくじの線の数は星の数ほどある天文学的な線なのだ。
人間には意思決定の自由はない。福田にもなかったし、誰にもない。
反省するしないの議論に関しても、あみだくじの線次第だ。今、多少なりとも福田には反省への線の流れがあるらしいが、今後の線によってそれもどちらかへ福田を導こう。
死刑判決を出せば反省するというものでもないのは宅間がそうであり、福田の死刑判決が反省へと導くだろうというのは自己満足の期待に過ぎない。
終身刑導入。上記の理由から論理的、道義的、経済的帰結と考える。
その意味で当方は本村氏と正反対の立場を取る。
なお、2008年5月23日金曜日の朝日新聞夕刊にも当方と同趣旨の責任論をとる刑法学者の見解が掲載されておる。
参照されたし。