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>>466
1933年のヒトラー内閣成立により、新設の宣伝省の大臣となり、最期まで
この地位を保持した。就任早々の1933年5月には反ナチス、ユダヤ的とされた
大量の書物を焼くという焚書を行って言論弾圧を行い、徹底した言論操作を
行って、ユダヤ人排斥運動をあおり、ドイツ国民を戦争に追いやった。
大戦末期には、人前に出て演説を行わなくなったヒトラーの代理として、
徹底抗戦の演説を行ったり、空襲で被災した都市を視察し、救助隊の組織を
して国民の賞賛を得た。スターリングラード大敗北後に行われた1943年2月
18日の「総力戦」という言葉を使って国民の語りかけた演説は有名である。
ベルリン攻防戦の直前には、総統地下壕に妻子をともなって入り、ヒトラー
と運命をともにすることを決意した。ヒトラーの遺言によって首相に任命さ
れたが、時すでに遅く、ヒトラー自決の翌日の1945年5月1日、ともにいた6
人の子供を毒殺し、自らは妻マグダとともに拳銃で自殺し、ヒトラーの後を
追った。彼は、自らの権力基盤が完全にヒトラーに依存していたことをよく
知っていたので、ヒトラーに徹底した盲従を示し、常にほかの側近と競い、
嫉妬で身を焦がしながらヒトラーに献身した。その結果、ヒトラーの後を追
って「殉死」したことは当然の帰結であるとも言える。夫妻の死体は部下に
よってガソリン焼却されたが、ガソリンが足りなかったため不完全な黒こげ
状態でソ連軍に発見された。
彼は生前、ナチス党幹部の権力を利用して私腹を肥やすことには全くの無
関心で、閣僚になって以後も借金に追われ続けた。私生活面ではマグダ夫人
との間に5人の子供を設けつつ、1937年から38年にかけてチェコの映画俳優と
の浮気スキャンダルが起きて一時妻との離婚騒動が起こるが、ヒトラーの仲
裁で事なきを得た。また、彼は生まれつき右足が短く右側に上下動する歩き
方をし、終生これをコンプレックスとして気にしていたという一面もあった。