06/07/24 03:05:47 /KUW+EwQ
『戦前、11月3日は明治天皇の天長節で、その日は長男の自分が
笹の葉を敷いたザルに2匹の秋刀魚を乗せて、各軒に配って歩く
というご近所への挨拶回りをした。20軒くらいだったと思う。
家は、他人様に施しをしてあげられる程金持ちじゃなかったが、
年に一度ご近所への心遣いとして我が家の恒例行事となっていた。
秋刀魚を受け取ると「ごちそうさまでございます。」と言って、
お返しにマッチをくれた。裕福な家は豆腐一丁程の大きさの徳用
マッチを一箱、マッチを一掴みだけくれるあまり裕福ではない家
もあった。
ある時父親に、マッチ一掴みで、見栄もはれない家がある。なぜ
損をして他人に尽くす必要があるのか、昼間家にやってくるぼろ屋
の朝鮮人は何のお返しすらくれない。と言ったところ張り倒された。
「他人様とは助け合う、そういうものだ。それがわかるまで家には
帰ってくるな。」と縁側から放り投げられた。
家の前でうずくまって泣いてる私の手を引いて母親が一緒に謝り
父親に許しを乞うてくれた。
その時の父親の言葉は今も忘れない。
「貧乏であるといった他人の境遇を蔑むべからず」
今にもサーベルに手が掛かりそうな程の父親のその勢いに金玉が
縮み上がった。
その後、警察官だった父親は台湾へ赴任し病死した。
当時の日本人が朝鮮人を差別したりすることはまずなかったし、
権威のある者ほど声高に「朝鮮人も日本人も同じ仲間だ」と言って
いたようだ。
「チョーセンジンpakaにするなオナジメシクテトコちがう」というのはおそらく
当時の権威の象徴とされる者達の「朝鮮人も日本人も同じ仲間だ」と
いう言葉を朝鮮人が利用しようとしていたのだろうと思う』