06/03/10 00:28:39 IvqE+jdy
URLリンク(www1.korea-np.co.jp)
「一九〇五年 韓国保護条約と植民地支配責任-歴史学と国際法学との対話」を出版して
世界史的にも稀な在日朝鮮人の経験
昨年11月に私は拙著(「一九〇五年韓国保護条約と植民地支配責任-
歴史学と国際法学との対話」創史社)を出版したが、そこに込められた筆者の
「思い」のようなことを書いてくれないかと本紙編集部から依頼があった。
一瞬ためらったが、出版後、さまざまなところから拙著に対する反響があったため、
この機会にそれをめぐっての筆者の考えを述べることで編集部の好意に応えたい。
これまで書評や合評会などで拙著が取り上げられ、そこでは、①一九〇五年条約が
不法とした場合、その後の諸法令も無効とすることが可能か、②筆者の帝国主義批判が
「政策」論へと転倒しているのではないか、などの疑問点が示された。
①は日本の朝鮮支配の歴史的地位に関する問題である。筆者は、旧条約「不当、不法論」の
立場に立っているが、他の不法論者が言う、「日本の朝鮮支配は植民地化ではなく、合法的
根拠のない強占(軍事占領)である」という論とは考えを異にする。軍事占領と植民地支配を
分けるこの考えでは、結果的には前者は不法、後者は合法となってしまう。朝鮮の場合、
日本の東南アジアに対する軍事占領とは異なり、軍事占領と植民地支配を分けることが
できない。つまり、不法な軍事占領により植民地支配が行われたためすべて無効であると
いうことである。しかし、植民地下での私法上の問題、たとえば婚姻や契約など生活上の
ことがらまでも無効とすることはできない。なぜならば国際法上の無効と私法上の無効は
分別されるためであり、その意味で植民地支配は実態として機能していたのである。
②は帝国主義時代に対する認識の問題である。「帝国主義はやはり政策であった」とする
和田春樹氏の文章を引用したため、筆者も同じ認識であると見られているようだが、
もちろん筆者はそのような認識に立っていない。筆者が言わんとするところは、これまでの
「構造決定論」的な帝国主義論は、帝国主義時代を帝国主義か、植民地か、とする
二者択一的な認識に「科学性」を付与する役割を果たしてきたのではないか、(続く)