03/05/05 22:50 vuW4gCBU
創価学会は戦後の高度成長時代が産み落とした申し子と言える。
昭和20年代、30年代。貧乏とそれに伴う病気持ちの人たちが続々と入信していくが
毎日、生活が大変といいながらも給料や栄養状態などが向上していく。
自然に貧乏から脱出、病気もよくなる。こんなことの繰り返しから功徳という言葉が
一人歩きを始める。
これが転換しだしたのが1969年の言論問題。
もちろん日本の高度成長もこの頃になるとひと心地ついたようになり、そのまんま
オイルショックからそれまでの学会の拡大は頭打ちになってくる。
経済成長と功徳とが妙に相関関係にある。
その後、拡大が頭うちになるとどういうことか、平和運動や文化運動として文化祭
が華やかになる。これが創価学会の組織を大きく強固にしていった。
次第に功徳という言葉も現世利益もあまり口にする人も少なくなる。
最近の聖教新聞を見てもわかるように、商売繁盛をしている人も功徳から繁盛している
という書き方ではなく、あくまで信心根本の信仰生活から繁盛していると言う書き方で
たなぼた功徳のような書き方にはなっていない。昔のというか、30年代の信仰しただけ
で功徳一杯の記事だらけ聖教新聞とはまったく異なっているのである。
会員も20年代、30年代の罰論やたなぼた功徳信心の幹部中心では対応できないと、理論
的に強い幹部、要領よく対応できるいわばうわべだけでもよいような軽い幹部が中心に
なる必要から1970年代半ばの指導部結成で、古い幹部の一掃をはかる。この頃から威張る
幹部も段々減少しだす。ところがこれがとんだ波紋を起こす。1979年の山崎、原島と宗門
問題から一掃された幹部たちが叛旗を翻すものが出始める。さらに、1977年の池田イギリス
訪問で当時の英国首相との対談から影響を受けた池田は公明党に定年制度を提唱。
これが公明党の内紛に発展する。当時の公明党は古い池田の先輩たちが議員をしていたわけ
でこれも学会の指導部制と並んで、古い幹部の一掃に拍車をかけた。