09/06/21 00:25:08 EuLFmgiM0
>>88
だいぶ違和感を覚えるのでちょっと一言。
消極的自由というのは、人がみな自由に行動するために国家が介入しないこと。
いわゆる国家からの自由に近似する概念。
(「私たちが自由に働けるために、国は『女性は○○の仕事に就いてはならない』という規制をするな!」というのが消極的自由)
対して、積極的自由というのは、国家が不介入を徹底していたら実質的にはみんなが自由には行動できない場合に、
みんなを対等に自由にするために、自由を享受している社会的経済的強者を制約することで、弱者の自由を補強すること。
いわゆる国家による自由に近似する概念。
(「私たちが自由に働けるために、国は『女性は○○の仕事に雇わない』と言っている会社を規制しろ!」というのが積極的自由)
で、現代の立憲主義諸国では、国民がみな消極的自由を有するのはもはや当然の前提として、
その上で、どういう積極的自由をどういう立法政策によって国家が作り出せば、実質的に国民みんなが自由に行動できるか、
ということが原理的には問題となっているわけでしょ。
ひるがえって、APPなんかの主張を見れば、それは「社会的経済的強者が自由にふるまう陰で
自分たちは自由に行動できないから、国は強者の自由を制約してほしい」という積極的自由の要求ではなくて、
ようするに「自分たちが気に入らない不埒な思想の人がいるから、国はそんな不埒者の自由を制約してほしい」という
他の国民から自由を奪うだけの不当要求にすぎない。
これを「典型的な積極的自由の論理」なんて言うなら、まさに自由を履き違えた論理だ。モンテスキューが聞いたら泣くよ。