09/04/30 17:07:16 t1qk1IWr0
>>142
憲法が国民を制限する、で正しい。
というよりも、民主主義国家における憲法の重要性は、まさに国民による国民の抑圧を防止することにある。
民主主義が産声をあげた時代、すなわち市民革命の真っ只中に、
かのアレクシス・ド・トクヴィルが「多数派による専制」という言葉をもってあらわしたように、
国民の多数派に絶対的な権力を与えることは、しばしば、少数派の弾圧につながり、
弾圧は少数派の声を封じ込め、さらにいっそう、多数派という名の一部の国民の権力を増大させる方向に働く。
彼の指摘からちょうど一世紀の後に、その危惧は現実のものになった。
つまり、国民の多数派から権力を委任されたものによる独裁、民主主義の自死、
ヒットラー、ムッソリーニ、スターリンといった独裁者による権力の掌握が起こったわけだ。
ロックやモンテスキューといった、近代社会の設計者達は、
本来、民主主義が衆愚政治に陥り、多数派による少数派の圧殺が起こらないよう、慎重に安全弁を設けた。
その典型的な例が、三権分立(権力の相互抑止)だ。
もし多数者が単純に全権力を掌握すればいいのであれば、
全人代のように多数派の付託を受けた最高機関に、全権力を集約すればいい。
しかし言うまでもないことだが、これでは民主主義は正常に機能しない。
多数派によって、(今もなおチベットで起こっているように)少数派の弾圧が行われるからだ。
三権分立や二院制は、そういう事態を防ぐ安全弁に他ならない。
(実際、こうした安全弁を持たなかったヴァイマール共和国において、ナチスは台頭した)
トクヴィルは、多数派専制を防ぐ手段として、多数派と同じ土台に少数派が立ち、
表現と言論によって、自らの主張の正当性を訴える機会を設けること、そしてそのための最低限の権利が、
いかなる意志によっても制限されたり、抑圧されたりしないような制度を作ることを提案した。
それこそが憲法であり、それが保障する言論の自由と表現の自由であり、
同じ民主主義を標榜していても、北朝鮮や中国が持たないものだ。
自由こそが、民主主義の前提なのだから。
「どのような時代にあっても私は自由を愛しただろうが、しかしこの時代にあっては、それを至高のものとして崇めたいと思う」
―トクヴィル