農学部を出ても農業をやらない人がいるようだがat NOUGAKU
農学部を出ても農業をやらない人がいるようだが - 暇つぶし2ch196:農NAME
10/06/01 00:57:41
日本語
 昨日、パガンからの道中に見た梨や林檎が忘れられず、市場に乗り込む。
が、生気の失せたマーケットにトマト以外の野菜は一切見当たらない。果物は高原でしか手に入らないのか・・・

 落胆を慰めてくれたのが、野菜炒め付き卵焼き載せご飯の昼飯。太いバナナとスープもついて45K(約45円)は
大満足。食堂の主人は、日本軍占領下で覚えさせられたカタコトの日本語を話してくれる。
この国では、かつて自国を蹂躙した国からの旅行者に親しく接してくれる彼のようなビルマ人に数多く出会った。
彼らの寛大さゆえなのか。
URLリンク(www1.u-netsurf.ne.jp)

 

197:農NAME
10/06/01 00:59:18
「日本語はどこで習ったの?あなたは中国人ですか?」と訊くと、「私はミャンマー人です」の
答え。お父さんは香港の出身で戦争中日本軍の船に乗っていたとのこと。旧ビルマで終戦になり、
そのまま居着いて結婚し自分が生まれた。
だから「自分はミャンマー人だ」ということのようだ。思いがけずも、ビルマと日本軍との
関わりを知ることになった、市場の散策でした。

ミャンマー中部にインレー湖という風光明媚な観光地があります。その基地となる
ニャウンシュエへは空港のあるヘーホーからタクシーで約1時間。ニャウンシュエ自体には
特に興味あるものはなく、ニャウンシュエの街を拠点にしてインレー湖周遊に出かけ、
少数民族のマーケットやガーペー僧院のネコの輪くぐりを見学したりすることになります。

そのニャウンシュエを歩いていると店の奥から日本語で呼び止められた。外国で
「コンニチハ?」などと声を掛けて来るのは大体土産物屋か両替屋、それにポン引きと相場が
決まっているから身構えたが、そのテの人間ではなさそうだ。
URLリンク(www.airegin.net)

198:農NAME
10/06/01 01:00:25
おばあちゃん。日本軍のお世話をしていたそうで、日本の歌を何曲も歌ってくれました。
当時の雰囲気がちょっと偲ばれました。
#Fujifilm PR21に...
URLリンク(homepage.mac.com)
 このおばあさんは、僕らが日本人だと見ると日本語の歌を歌い始めました。
「兵隊さんよありがとう」なんて歌うのですから。全部で5曲覚えているそうですが、
歌い終わると必ず自分で「よろしい!」と言います。多分日本軍に覚えさせられたのでしょう。
ちなみに私がはいているのは、ミャンマーの巻きスカート、ロンジーです。
URLリンク(isekinotabi.com)

199:農NAME
10/06/01 01:02:14
地元の運転手(シュエニャウン在住のインダー族)によれば、北に十数キロのタウンニー村までは行けると
言うのでそこに向かう。タウンジーと似た名前だが、タウン(山)ジー(大きい)に対して、
タウン(山)ニー(赤い)というビルマ語である。第二次大戦の日本軍関係資料によれば、
トラック部隊の分隊がタウンニー村に駐屯していた。
そこにチェーンを受け取りに行ったロイレム駐屯の輜重隊(「祭」師団)の方から話を聞いたこともある。
また、ヘホー飛行場の施設部隊は、1944年(昭和19年)末から1945年(昭和20年)初めにかけて
数箇所の秘匿飛行場(秘密の仮設飛行場)建設を行ない、ひとつはこの街道を行ったロックソック郊外で、
ちょうど温泉が湧いているのを見つけて風呂場を作った話も聞いた。

 北に向かう道路に沿って鉄道が出来ていて、バトーまで通じている。タウンニー村は、
街道に沿って両側に家屋が並ぶ小さな集落だった。ティーハウスがあって、住民らしい男たちが
集まっているので古老がいないかと尋ねてみた。70歳を越えるひとりの老人は、
「中部ビルマのミンジャン辺りの生まれで、1971年にこの村に移入して来た。当時民家は数戸だった」と言う。
中部ビルマと較べて「ここは土地も気候も良い」そうだ。

昔からここに住んでいた人はいないのかと訊くと、店にいた男たちが相談して二人の老人を呼んで来た。
やって来たのはふたりともパオー族で、ひとりは戦争の始まった頃、寺の小僧をしていたそうだが
日本軍の確かな記憶はない。空襲が始まったのでふたりとも森の中に3年間逃げていて、
村の様子はわからないとのこと。
URLリンク(www51.tok2.com)

200:農NAME
10/06/01 01:02:55
エイエイ先生は元小学校教員で現在小さい子供のための私塾を運営されています。お母様は、
戦時中旧日本軍が作った現地の子供たちのための学校で、勉強されたそうでそのことをよく娘の
エイエイ先生に話されたそうです。
「ミャンマーの子供たちのために支援していただくのに、何で私が手当てを受け取れましょう」と、
無給で連絡員をして頂いています。
URLリンク(www.minc.ne.jp)

201:農NAME
10/06/01 01:05:03
この一帯はヤンゴン、バガンより涼しく天国。水上に高床式の家を建て、さらには学校を作り、
ネコに輪っかくぐりをさせるのが名物の寺まである。ここに住む人の移動手段はボートで、
子供達は手漕ぎボートで学校にいく。ネコに小便をかけられたサンダルもボートに乗って洗濯。
そのネコの寺で日本語を話すお爺さんに遭遇。第二次大戦中日本軍に教えられたらしいが
むちゃくちゃ優しかった。写真を撮れ、撮れとゆうので一緒に腕を組んで撮った。湖の小学校にボートで立ち寄るとなぜか
大歓迎をうけた。小さな子供達が集まってワイワイガヤガヤ、みんな裸足で泥だらけになってもお構いなしで元気だ。
湖に一番近い大きい街ニャウンシュエからチャリでマーケットにいくと色々な民族が入り混じって
色々なものを売っている。チョーさんには彼らの着ている物の違いで何族か分かるようだ。
山岳部には独立のためにミャンマー政府と戦っている民族もいるらしく、なにせたくさんの民族がいる。
首なが族も観光客相手が大変らしい…バガンのマーケットにいたおばーちゃんをインレー湖畔
の街のマーケットでも発見。手織りの子供用靴下を売ってたので購入した。
URLリンク(blog.goo.ne.jp)

202:農NAME
10/06/07 00:21:41
ちなみに「埋葬を禁じる」のに近い例は南京事件にもあります。ラーベの日記に出てきますが。

「市内にはいまだに何千もの死体が埋葬もされずに野ざらしになっています。なかにはすでに犬に食われているものもあります。
でもここでは道ばたで犬の肉が売られているんですよ。この二十八日間というものずっと、遺体を埋葬させてほしいと頼んできましたがだめでした」。
福田氏は〔軍が〕紅卍字会に埋葬許可を出すよう、もう一度かけあってみると約束してくれた。

(URLリンク(latemhk.tdiary.net) より孫引き。〔 〕内は私の補足。)

入城式のコースに当たる部分だけは大急ぎで遺体を片付けさせたようですが、それ以外の部分は長い間放置されていた、と。
まあこの場合「見せしめ」として放置させたわけではなく、中国人に組織的な活動を許さなかったというだけだろうとは思いますが、
人道面でも公衆衛生の面でも近代的な軍隊のやることではありませんな。

ちなみに目撃者の証言が「死体はほとんど見なかった」と「死体の山を見た」とに分かれたりするのは、別にどちらかが嘘をついているとは限らず、
単に見たところが違っていたとすれば説明がつくことです。

203:農NAME
10/06/07 00:31:50
南京事件否定論を構成する個々の議論のなかには、「それ自体としては間違っていないが、しかし全体の文脈を無視しているので不適切になっている」類いのものから荒唐無稽なもの、
明らかな嘘っぱちまでいろいろあるわけですが、「見た人が1人もいない」は最悪の部類に属するものです。まず、大都市およびその周辺で数週間から数ヶ月の
間に起こった出来事をすべて、一人で鳥瞰した人間は存在しない。これは当たり前です。しかしそんなことをいえば東京大空襲だってシベリア抑留だって
同じことなので、これは「南京大虐殺、と総称される一連の虐殺、略奪、強姦等の個別事例を見た人は1人もいない」という意味に解さざるを得ません。
しかしそうすると、これは端的に嘘なんですね。「見た」という証言、「やった」という証言はいくつもあります。公文書による裏づけもあります。
もし『週刊金曜日』の報道が正しいなら、公職にある人間が公的な場で平然と嘘っぱち(「新書一冊読めば」直ちに明らかになるデタラメ)を
語ったということになります。別に東浩紀のように「自分で調査」してないからわからないなどと逃げる必要はない、明々白々たる事実です。

204:農NAME
10/06/07 00:38:36
ご存知の方も多いと思いますが、南京事件否定論者はしばしば「犠牲者の名簿を出せ」と言い出します。戦争中に、しかもその後8年間も敵(日本軍)に
実効支配されていた土地でおこった虐殺事件の被害者名簿がきちんとつくられていたらその方が怪しい、と考えるのが健全な常識というものです。
大量虐殺は人間の死を「名前のない死」にしてしまう。これが単なる殺人事件とは異なる、大量殺害の本質です。

205:農NAME
10/06/07 00:50:17
また、「大虐殺を見た証人はいない」という主張に対しては、「具体的な問題として、一人で数千人の虐殺を見ることがいかに困難なことであるかをこの筆者は理解しているであろうか」と
実に的確な指摘をしている。幕府山での大量虐殺のようなことがひっきりなしにあったわけではなく、数人、数十人、数百人の虐殺を積み重ねた結果が万、10万のオーダーの数字になっているのである。

206:農NAME
10/06/07 00:55:40
南京事件というのは「殺害」という犯罪類型だけに限っても小は1人から、大は1万人以上を殺害した数多くの出来事の複合体です。
その複合体を構成する個別の事件についても「どの程度確実か」「どの程度詳細がわかっているか」は様々なのであって、こうした複雑さを承知している者に
とっては「どの事実が否定されたら南京事件が否定されるのか」という問い*2自体がナンセンスです*3。敢えて答えるとしたら「これまであったとされてきた
個別のケースの多くが実はなかったと判明したら」という、ほとんど意味のない漠然とした答えしか返しようがない。眞鍋かとり氏についても言えることですが、
南京事件のこのような複合性をきちんと理解していない人にはまずもってその複合性を理解してもらうのが先決なんですね。そういうことは実は南京事件それ自体に
ついては無知であったとしても、大量虐殺という事態についてのある程度の知識と想像力があればわかるはずのことなんですけどね。

207:農NAME
10/06/21 00:27:32
新首相の支持率とやらが急上昇中。
どうしてそんなにすぐ支持する気になるの?
アップダウンが激しすぎでしょ。
急に信じて、また、ださまれた~ってがっかりすることになるのがオチよん。

でも、世の中の人は信じやすいのだ。
いや、何かを信じたい。言い返せば、何かにだまされたいと思っているのかも。

「きっこのブログ」は好きじゃないけれど、たまにのぞいてみる。
今回は、なかなかいい内容でした。
テレビによるコラーゲン詐欺

よくぞ言ってくれました、です。
「危険」を煽って、あるいは「効能」を謳って商売するという典型ですね。

なんでも煽るのって簡単なんですよね。
刺激的な言葉を並べればいいのだから。
あるいは心地よい言葉?
「環境に悪い!体に悪い!」という言葉はけっこう心地よかったりするのかも。
一つのわかりやすーい判断材料を与えられるわけだから。

208:農NAME
10/06/26 00:11:40
日本がサッカーなどに勝ってしまうことが、本当に正しいことなのか。もちろん、スポーツで時刻が勝利することは目出度いことだが、
そういう時こそ、日の丸を振り回して騒ぐのではなく、
日本が過去に行った犯罪行為を謙虚に反省し、二度とそのようなことを行わないことを心に誓わなければならない。

その意味で、日本が国際スポーツで反則を行うことは決して許されないが、日本選手に対する多少の
手荒い行為は許されていると考えるのが、政治的に正しいのです。審判も当然それを前提にしたジャッジを行うべきなのです。

サッカーの勝利を喜ぶ前に、ナショナリズムを警戒しなければなりません。実際、暴動に発展しかねない潜勢力が今の日本にはある。
それが間違った方向に噴出するのが恐ろしい。
そもそも戦後日本は国旗を振り回して狂乱するようなことは禁じられていたのではないか?いつから解禁になったのか?

209:農NAME
10/06/27 12:13:10
日本ってインフラや法律など、個人がベンチャー起こしにくい環境がある。
失敗して破産してもそれを助ける環境もない。
それに、高卒大卒共に学業を終えたら企業のためにサービス残業で貢献という
旧態依然な風潮が未だにあるしさ。(学校の部活も実は産業界からの要請で
サビ残になれさせる為や体育会系的な体質を叩き込むためにやらせてるという
説がある。)
、、、、、それって、戦前の立派な兵隊になって国のため忠誠を誓い戦争で死ぬ
という風潮と変わらんじゃないの?
ただ単に国が企業 兵隊がサラリーマンになっただけで。

210:農NAME
10/06/27 19:28:39
独立化が進んだことじゃないかなぁ。でも、これは太平洋戦争だけじゃなくて、第二次世界大戦全般が影響してると思います。
ひとつの例としては、第二次世界大戦時にオランダがドイツに飲み込まれたのに漬け込んで、当時オランダの植民地だったインドネシアを
日本が大東亜共栄圏というものに入れました。戦争に負けた日本はインドネシアから手を引きましたが、オランダがまたインドネシアを植民地化しようとしたのに
対してインドネシアの人々と残留していた日本人が蜂起(ほうき)しました。最終的にインドネシアは独立戦争に勝ちました。みたいな感じなのがあります。

あと個人ごとですが、日本はさほど東南アジア諸国に悪いことをしたとは、私は思っていません。
日本軍の人に優しくしてもらったと言っていたインドネシアのおばあちゃんにあったことがあるからです。
URLリンク(detail.chiebukuro.yahoo.co.jp)

211:農NAME
10/06/27 19:30:15
2006.3.11トバ湖での朝食の出来事
ホテルを出て朝食は村の食堂(Asia)で,ナシ・ゴレンを食べました。店の前で隣の雑貨店からおばあちゃんが我々を日本人だと思ったのか、
突然「あな~ たと呼べ~ば、あな~たと答える・・・・」と歌い出し皆な、びっくり!その他の日本の歌も出てきたので聞いた所、旧日本軍(戦時中)に
教えてもらったそうです。こんな所にまだ戦争の名残が・・・。
おばあちゃんとそのひ孫達?を見ながら複雑な気持ちでした。ただ、おばあちゃんがニコニコしながら歌ってくれたのが何物にも変えがたい救いでした。
URLリンク(www.dartcoffee.co.jp)

212:農NAME
10/06/27 19:33:09
 17歳の時に私はタイプ学校の一人の教師として務めました。当時はインドネシアは大変な時期でした。(インドネシアは1600年からオランダの植民地でした。)
オランダとインドネシアの権力は大変な危険な時期でした。なぜならば、その年は第二次世界大戦でした。私は青春時代には楽しい思い出はほとんどなかった。
1942年1月10日、日本軍はインドネシアに入って、女の子たちは自由に外で出られなかった。第二次世界大戦を思い出すのはとても恐ろしいです。
 戦争はますますはげしくなって、生活も苦しくなったきました。食べものさえ十分にいただけなかった。米、金など、日本軍にささげなければならなかった。
白いご飯を食べるのは大変贅沢でした。男の人は次々とつかまえられ、青年団や警防団などとして働かされました。その若者たちは、戦場に行ったら、もう二度と無事に帰ることができませんでした。
 日本軍はインドネシアの国民に自分のことは"兄弟"だと呼んで、「兄弟のために、協力するのがあたりまえのことだ!」同じアジア人だから、など。
 その後私は交通省に入社しました。私の担当は計理係でした。戦争時には私はほとんど家に帰れません。事務所で泊りこんでいました。父の使用人は
私の安全を確認しながら、父と連絡を取りあって、私は外に出ることもほとんどできませんでした。
 戦争のせいで、生活がますます苦しくなりました。畑にあるいも、野菜、くだものなど、夜のうちになくなることもたびたびありました。父はそのことを聞いたとき、
「食べてもおいしくないのに…。」食べものはほとんどどこにもなかった。戦争のために、家にある食料やきるもの、全部持って行かれました。
 空襲がはげしい時、私は電話からはなれることもできなかった。いつでも上司から電話がかけてくるとき、すぐに電話を取れるように。サイレンはたびたび鳴りました。
ある夜中に、本社から緊急の電話がありました。まもなく日本空軍がこの町に上陸するから、今すぐ事務所から出て、会社の重要物を持って、避難するように、という命令でした。
URLリンク(www.ipc.hokusei.ac.jp)

213:名無しさん@そうだ選挙に行こう
10/07/11 18:52:29
場所;インドネシア、スマトラ島、リアウ州、トゥラタック・ブル(カンパル・カナン川流域)
時;皇紀2605年8月半ばの月曜から木曜まで
登場人物

木口軍曹
小瀬中尉
宍道少佐
日本兵10名ほど
サティヤ(小瀬中尉の世話をする女、ジャワ島プルウォクルトのムルシ村出身)

ウィンペ(オランダ王国軍軍曹、元ボクサー、ジャカルタで育つ)捕虜
ファン・ロスコット(オランダ王国軍中尉、牧師助手)捕虜
オランダ人捕虜は31人

クリウォン(オランダ人捕虜といっしょのロームシャ、ジャワ島パチタン出身)
ハサン爺さん(15年前から村に住んでる流れ者)
ハジ・ゼン(村一番の金持ち)
ハジ・ドゥラマ(ハジ・ゼンの妻)
レナ(ハジ・ゼンの末娘、19歳未婚)
アニス(ミナンカバウ人の行商人、ブキティンギ出身で村に滞在)
ハジ・ウスマン(ワルンを営む村人、アニスがここに住んでいる)

「森」という名の奥地の村、100人ほどの男女が住むといわれる。

爆撃も戦闘もない静かな村の四日間を描く。近くには、プカンバルからシジュンジュンまでの石炭運搬用鉄道があるが、
この村は工事現場から離れ、ロームシャの集団もいないし、日本軍も小隊が駐屯するだけ。
URLリンク(blog.goo.ne.jp)

214:農NAME
10/07/14 01:15:43
あなた何言っちゃってるの?という感じです。こうやって国際法や条約を振りかざして、いま起きている問題が解決できるのでしょうか。
できませんよね。いま問題になっていることは、法や条約の下で、これまで見捨てられ排除されてきた被害者の苦痛をどう救済していくかということなわけです。
国際法も万能ではないのです。原爆投下だって国際法上は問題なかった時代もあったわけですから。

戦後の差別的な補償のあり方というのはなにも朝鮮人の問題だけでなく、日本人も同じなわけですよ。シベリア抑留問題*1にしたって
東京大空襲の被災者や山西省日本軍残留や中国残留孤児の問題にしたって、政府はこれまで戦後処理は終わったものとし、
特段の擁護も補償もしないで放置してきたわけです。

例えば国の法的な賠償責任を否定した東京大空襲訴訟では、国は、「戦争被害ないし戦争損害は、国民はひとしく受忍しなければならない」との1
987年の最高裁第二小法廷判決(「戦争被害受忍論」)を引用し、原告らの主張についての事実認否を行わず事実関係に関する証拠調べも
一切不要であるとし書面審理のみでの早期の棄却を主張しています。*2

このように国(政府)が責任を引き受けないために、高齢化する被害者の傷はいまなお再生産され続けているのが現状です。わたしに出来ることはといえば、
国へ補償や謝罪を求める被害者の声を抑圧する側が「売国奴」「反日」「ゴネ得」などと罵る言葉を浴びせたときに、
こうして反対の立場に立って可能な限り反論していくことだ。ということになります。

なぜそうした立場に立つのかといえば、被害者を抑圧する側へ加担することを拒否すると同時に、それはつまり、
これから先、仮に自分が戦争に巻き込まれ被害を受けた場合、国がなんら補償をしないことを容認したことになってしまうからです。

215:農NAME
10/07/19 00:09:49
オンデ・オンデ・ボーイ
URLリンク(ameblo.jp)
パラナカン・デザートは主として上新粉やココナッツを使った生菓子。
気候的に小豆が手に入りにくいからなのかいわゆる餡子の小豆色は少なく、緑やピンクの染料を使ったカラフルで小さな練り菓子がほとんど。
総勢11人で大騒ぎしながら食事をした後、デザートを食べていたとき、義父がパラナカン・デザートに触発されて昔話を始めた。

義父が9歳のとき、日本軍がシンガポールにやってきた。
間もなく義父の父は日本軍に連行されそれきり杳として行方がわからなくなった。これからいつも後は私に気を遣って
はっきりとは言わないのだが、おそらく義父の父は日本軍に殺された。
義父は6人兄弟。2人の兄弟と3人の姉妹がいた。
父がいなくなったときから、母と姉妹を養うため義父と兄弟は港で荷役の仕事を始めた。

216:農NAME
10/07/19 00:13:36
やはり スンバには 当時は観光客は皆無で 日本人は かの世界大戦以来のスンバ入りと言う感じで ワインガプーと言う 西部スンバ最大の町の 
ホテル? に泊まることになりました すると ホテルの敷地には入っては来ませんが 人々が大勢 日本人を見に集まってきました そして 
あるスンバのローカルのオジサンが 旧日本軍の制服にゲートルも巻き 「ヤマダ イットウヘイ タダイマ マイリマシタ」 と最敬礼で 部屋を訪れ 
軍歌や日本軍の思いで話を聞きました このオジサン曰く 「テイコクカイグンハ レイギタダシク シンセツデ イイヒトタチ」と言って 
明日 海岸の崖沿いに有る 旧海軍の洞穴を見に連れて行ってくれるというので 断ることも失礼な気がして 連れて行って貰う事にしました
(略)
帝国海軍の兵隊さんは 当然 手作業で この洞穴を掘ったのでしょう すごいことですわ 表には 高射砲なども そのまま 被害なく 残っていました 
やはり 規律の正しいく きびしい帝国海軍の兵隊さんと友情を結んだオジサンも すべて兵隊言葉で 説明してくれました ニアスでも 
ローカルのオジサンは 日本の兵隊が空から 降ってきた魔法使いだ!と言っていました(落下傘部隊)

兵隊さんはすごいわ~ リスペクト!
URLリンク(ameblo.jp)


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