06/03/30 14:43:16
素人のおいらの理解
真である命題全部⊃証明可能な命題全部
偽である命題全部⊃反証可能な命題全部
真であり、かつ偽であるという命題はない
真であるのに「証明可能な命題全部」に含まれない、という命題がある
偽であるのに「反証可能な命題全部」に含まれない、という命題もある
982:132人目の素数さん
06/03/30 23:13:52
真であるとか真でないとか言う言い分を公理と証明以外のものに
もとめるという感覚が理解できません。
証明できないけど真だっていうのは、たとえばどういうこと?
983:132人目の素数さん
06/03/31 00:06:29
>>982
>素人のおいらの理解
984:132人目の素数さん
06/03/31 00:49:50
いや答えになってないし
985:132人目の素数さん
06/03/31 14:27:59
「証明可能」というときは公理系(理論)を固定して
「その理論において証明可能」というように相対化しないと
正しい理解にはならないよ
「文Aを証明する公理形が存在する」という意味で
「Aは証明可能」というのなら任意の文が「証明可能」になっちゃうし、
「文Aを証明する無矛盾な公理形が存在する」という意味でも
1階論理で反証されない任意の文が「証明可能」になっちゃう
986:132人目の素数さん
06/03/31 14:34:45
「真」の概念もそう
「任意の構造について真」とか
「自然数の構造Nについて真」とか
「ペアノ算術の任意のモデルについて真」とか
何についての真理のことを言っているのか常に自覚しないと駄目
987:132人目の素数さん
06/03/31 14:49:41
ペアノ算術など、一定の条件を満たす無矛盾な公理系Tでは、
Aも¬Aも証明できない(算術の言語の)文Aが存在する
これが(第一)不完全性定理
すると、例えば自然数の構造Nは、ペアノ算術のモデルだけども、
「Nで真の文」と「Nで真でない文、すなわちNで偽の文」は
算術の言語の文すべての集合を2分割するので、
・AがNで真 (なのにTで証明できない)
・¬AがNで真 (なのにTで証明できない)
のどちらかが成り立つ
もちろんTと異なる体系T’では、証明できる文、できない文が
Tと異なってくる
例えばTに公理としてAを加えた体系T’を考えれば
Tで証明できなかったAが自明に証明できてしまう
それでもまた新たに、T’で証明も反証もできない文Bがでてくる
(T’が不完全性定理の条件を満たしていれば)
988:132人目の素数さん
06/03/31 17:10:48
せっかくそういう説明しても>>982のようなやつには理解できないと思うよ。つーーーか
理解を拒否される気がする。
989:132人目の素数さん
06/03/31 17:33:33
そういうもんかな
ゲーデル文のアイデアを「感覚的」な(半分嘘の)説明で
説明したほうがいいのかもしれないけど
自分で半分嘘と思いつつ書くってのはどうも抵抗が
でもやってみる
文Gを、「Gは証明可能でない」と定義する
Gが証明可能だと仮定すると、Gの述べることは真だから、Gは証明可能でなく、仮定と矛盾
従ってGは証明可能でない、ゆえにGは真である
というか>>982は、
「真でも偽でもない文が存在する」
という立場にコミットしてることを自覚してるのかな
(「真」の意味にもよるだろうけど)
990:132人目の素数さん
06/03/31 20:06:05
>>989
言ってることはおおむねは分かってるつもりですよ。
つまりその「Gは証明可能でない」にあたる命題が、どのように
公理系を選んでも、自然数の体系を含む公理系である限り
体系内にできてしまうって話しでしょ?
>「真でも偽でもない文が存在する」
>という立場にコミットしてることを自覚してるのかな
そうですね。そうなってしまいますね。
(これをやると直観主義へ行ってしまうんですかね)
これはこれで変な主張だなとは思います。だから
私は何かを主張したいというよりも、単純にわからないんで
とまどってるんですよね。
ただ、排中律を無批判に認めるべきでない(「排中律を認めるべきではない」
ではない)という直観主義の立場もそれなりに理解はできる。
(ただ、無力ではないかという批判には反論できませんが)
たとえば、真でも偽でもない文の存在を認めると、背理法が使えない
場合がでてくるわけですが、数学のすべてが壊れるわけではないし、
背理法を使わない証明がない場合で、背理法を使うのがあやしいような場合は
構成的に証明できるようになるまでの暫定措置だとも考えられる。
(まあ、それなら排中律を事実上認めているわけですが)
それに、あと、単に「真」を「肯定証明可能」と同義にするか
しないかの言葉の問題にすぎない気もしてきました。
991:132人目の素数さん
06/03/31 21:44:45
ある一つの(固定された)モデルにおいて、真でも偽でもないような文は無い
(つまり命題の真や偽は何故かは知らないがどちらかに決まっている)
と信じてそう仮定するのが普通のsemanticsだと思います
ある体系(論理の推論規則と公理と数学の公理)で証明可能、
というときに「ある体系」を意識するのが重要なのと同じで、
どの「モデル」で真か、というのが重要です
そして全てのモデルで真である、というのを恒真と言います
自然数論や集合論だと分かりにくいので、仮に
たとえば有限群論の公理系が与えられたと考えましょうか
∀a∃b a・b = b・a = e
とかが公理です(有限性をどう公理にするのか知りませんがw)
このとき、群の位数は偶数である、はモデルによって真になったり
偽になったりします
一方で群の位数を(p^n)q、qはpの倍数でなく、
pは素数としたときに、位数p^nの部分群が存在する、は恒真です
992:132人目の素数さん
06/03/31 21:52:33
直観主義にもKripke semanticsとかあるらしいんですが
勉強してないからしらないや
可能世界意味論とか言うらしいですが
さて、たとえば自然数論で言うと、第一不完全性定理の主張は
PAが無矛盾(つまり、証明できない文が存在する)なら
(まあ、我々は、自然数が矛盾概念であるかもしれないなどとは
考えないので、そうだと強く確信している訳ですが)、
通常我々が言うところの「自然数」をモデルにとったときは
「真」であるはずの文で、しかもPAから証明できない文が存在する、というのが
まあある程度正確な第一不完全性定理の主張です
993:132人目の素数さん
06/03/31 22:20:18
ヒルベルト論理体系に基づく公理系自体が不完全なんだからその上にある自然数の公理が不完全でも仕方ないだろ
994:132人目の素数さん
06/03/31 23:16:20
>>991
>ある一つの(固定された)モデルにおいて、真でも偽でもないような文は無い
>(つまり命題の真や偽は何故かは知らないがどちらかに決まっている)
>と信じてそう仮定するのが普通のsemanticsだと思います
つまり、それ自体が公理なんですよね?
995:132人目の素数さん
06/03/32 17:28:39
>>993
古典論理の一階述語論理自体は、
あれ以外のもの(証明能力があれより強いもの)は考えられないので
論理体系が「悪い」んじゃなくて、やっぱ自然数論の「せい」なんじゃないですかね
>994
まあそうですね
実際に何らかの方法で真偽が確定するわけじゃありません
僕も最初に勉強したときには結構違和感持ちました
あの種の研究を最初に始めたのはTarsikiとからしいです
996:132人目の素数さん
06/03/32 18:26:50
一年百七十日。
997:132人目の素数さん
06/03/32 19:26:16
>>995
自然数数論云々はあくまでゲーデルが最初に自然数論を用いて不完全性を照明したという
歴史的背景によるものであって、チャーチとかは自然数論に持ち込まずに不完全性を証明してる罠
998:下妻物語
06/03/32 21:05:34
| イ //\\ .ト |
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ヽ| レ' ト、| |
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栄えあるATがピンチです。助けて下さい。
AT最強!!
スレリンク(bike板)
999:132人目の素数さん
06/03/32 21:11:35
999
1000:1000
06/03/32 21:11:39
1000 円均一 ~
って、もう 寝よ っと。
基礎は睡眠にあり~
ってなんちって
てへ
1001:1001
Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。