08/02/05 19:54:57
日本語のプログラムは、同名の書が、解明している。ここでは、日本をひとつの
プログラムとして捉えてみよう。(回路図のようなものとして、捉えるのである。)
天皇制は、稲作の開始と同時である。風土が人間構造を規定するというような言い方は、
粗い(「風土」は、しかし、それなりに真をついているだろう。)が、生産構造を規定して
いることは疑えない。生産構造は、人間構造を規定するだろう。
稲作は、集団性を要請する。日本に、集団主義が見られるとすれば、そのためだろう。
しかし、中国(ここでもたぶん、米が主食だろう。)の集団性と、日本のそれとは異なる。
中国は、戦闘的な集団主義であろう。日本の公家的なものは、これには敵わない。
この差はどこから来るのか。ブナ林が多いからか(これをいった人は、舐めているのか)。
ウテナは、3組の、兄・妹が現れる。薔薇の花嫁と、世界の果てのペアが、黒幕である。
細かいところは忘れてしまったけれど、百合空間を、考え抜いたといってよいだろう。
妹と、エンゲージさせる。これにより、(そこに行くと何でも願いがかなう?)城に近づく。
これは、藤原氏になりませんか、という誘いである。
しかし、それをさらに操るものがいるという…。そして、天皇は、学園を出てゆく…。
天皇制の終わり。稲作と共に始まった天皇制が、稲作の終わり(ほとんどのものは、
稲作から離れたという意味で。)と共に終わるのはありうることだ(吉本隆明「日本語の
ゆくえ」)。しかし、集団主義が支配したあとで、そう簡単に主体化が行われるのだろうか。
主体の消滅は、この上ない快楽でもあった。女子高生は、それを見事に行ったわけである。