08/01/27 20:56:59
ラインハートという作家は、「もしも私が知ってさえいたら」というのがスタイルです。
「あのときのわたしが、あの家の明るい佇まいの背後に、不気味な秘密がひそんでいることを知っていさえいたら、ドアのなかには一歩だって足を踏み入れなかったでしょうに。
もしもあのときのわたしに、現在の知識の幾分でもあったのなら、床と壁の隙間から聞こえてきた会話をそっくりそのまま、警部さんのお耳に入れておいたわ。それで少なくとも
三人のひとの命が救えたはずだわね。
殺人者は結局、追う者の巧みな作戦に負けて自白に追い込まれるが、もしも関係者の全員が当初から、その知るところを素直に述べてさえいたら、ストーリーの完結は百ページ以
上も早まっていたであろう。
よくって、警部さん、ほんとのことを言うと、わたしたち、あの男が犯人なのをずっと前から知っていたのよ。でもお話できなかったの。だって、絶対的に確実な証拠のないこと
には、喋ったって笑いものになるだけですもの。」(オグデン・ナッシュ)
我われが長く引用したのは、他でもありません。我われの人生にも同じことが言えるのです。この作風には、可能世界論的な色彩が感じられなくはありません。ありえた選択肢が
常に反実仮想として、示されているわけですから。
あのときのわたしが、ロースクールの明るい佇まいの背後に、陰惨な虐殺がひそんでいることを知っていさえいたら、門のなかには一歩だって足を踏み入れなかったでしょうに。
それよりも、司法試験など目指しこと、法学部に進んだこと、文系に進んだこと、私学に入ったこと、遡っていけば切りがありません。
あした、光通信の工事が来るので、うまくつながらなかったら、このままさよならです。
じゃあね。