08/05/13 05:39:35 5r+Jceep0
>>288
しかし、中学、高校で出会うのと、小学校で出会うのは意味合いが違うように思います。
男子部を出た子は「確かに毎日”お祈りの時間です。祈りましょう”の放送が流れていたけど、
誰もそんなのやってなかったね」とどこかに書いていましたが、
小学生はもっと素直に受け入れるでしょう。
一般教養のレベルで終わるのでしょうか?
私は大学生のとき、聖書を始めて読みました。
そのころにチベット仏教や、イスラム教などについてもいろいろ読みました。
一般教養とはそういうものではないですか
>>284
物事を判断する「ものさし」は、子どもの頃は(少なくとも思春期までは)、
親が与えるものではないのですか?
親が信仰していない宗教にその「ものさし」を求めるのはよくわかりません。
そこに「ずれ」は生じないのでしょうか?
>>282
信仰を強制されないといいますが、毎日数回短いお祈りがあって、
毎週礼拝堂でしっかりしたお祈りをするのですよね。
全員がするのではないのですか?
聖書は一般教養として読むのですか?
受け入れるためではなくて?
学園そのものが、布教を目的としているのではないですか?
それぞれの家の宗教がなんであれ、学園の方針に賛同して入学を希望したのだから、
学校はその子にキリスト教徒になるべく教育をほどこすのではないですか?
あの校則をまもるということは、キリスト教徒になりますということそのものではないですか?