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『いったんキリスト教徒になれば、皇帝といえども一匹の羊にすぎない。
「羊」と「羊飼い」では、勝負は明らかであったのだ。
ミラノ司教アンブロシウスは、キリスト教と世俗の権力の関係を、実に正確に把握していたのにちがいない。
肯定がその地位に就くのも権力を行使できるのも、神が認めたからであり、その神の意向を人間に伝えるのは司教とされる以上、皇帝といえども司教の意に逆らうことはできない。
これが、両者の関係の真実である、と。』
(『ローマ人の物語ⅩⅣ キリストの勝利』塩野七生 新潮社 2005年)
『人間は罪をおかす存在であるが、(神にして)人であるイエス・キリストの死はこれを贖い、イエスをキリストと信じるものは罪の赦しを得て(赦しを受けても償いの義務は残るので注意 償いを免れるわけではない)永遠の生命に入る、という信仰がキリスト教の根幹』
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これが高じると異教徒は悪魔の手先にという考えになる。
ミッション系の尊大さはここに起因するのでは。
事実であっても批判は許さない態度を見ると感じる