08/05/20 15:08:37 m75WX+Ce0
戦後新しい形での平等思想が広まったせいなのか、学力的に低いレベルの
人々も、我先にと東大を頂点とする大学入試へのレースに参加することになった。
戦前だったら家が貧しいとか出来が悪い家の息子は小学校出たら丁稚奉公に
出されたものです。そういう人々までも受験という大きなレースに巻き込まれる
風潮が成立した。大学に行けない奴は負け組み、レベルの低い大学に入った奴は
負け組み。それは果たして功か不功か。
なるほど、どんな経済状況の家庭でも出来が悪い人間でも、必死で努力して
大学という関門を突破することで人生の成功を勝ち取ることが出来るように
なったとも言える。だが同時に、本来大学入試というレースに参加すべきでない
人々までもがこのラットレースに巻き込まれることになってしまったのではないか。
果たして自分はこのレースに参加すべき人間なのだろうか。参加すべきでない、
他の道を歩むべき人間なのだろうか。
大学入試は決して楽な戦いではない。戦前に大学を出たような家庭、
家がそこそこ裕福で、頭だって良かった人々にとってだって
高等教育機関を突破することは並大抵の苦労では無かった。
いわんや、経済的に不利な家庭の子供、学力的に低い水準にある人にとって
大学受験とは、彼ら以上にもっともっと厳しいものになってしまう事は避けられない。
今、学力的に高くない人にとって受験勉強は普通の人以上に辛いわけだが
それは以上の理由による。即ちその苦痛は自らが選択した苦痛なのである。
多分に構造的な理由によって、誰もが巻き込まれるラットレースにおける
弱者が、更に上を目指そうというときに必然的に起こる苦痛。
それでも自分はその道を進むことを選んだ。自らの意志でその茨の道を
突き進むことを選択したのだ。自らの意志によって引き起こされる
苦難には甘んじてそれに立ち向かわなければならない。