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昭和39年4月に学校法人桐蔭学園設立後、
創立者・柴田周吉理事長のもとで桐蔭学園の理事会の監事をしていた長男・柴田矩雄(三菱樹脂勤務)が
昭和52年3月に死去し、後任監事として次男の柴田紘次(味の素勤務)が就任した。
昭和57年10月2日に柴田周吉理事長が亡くなった後、
多くの理事の反対を押し退けて鵜川昇は理事長と校長の両ポストを手にする。
59年6月には創設時からの理事である出光計助、大久保謙、長浜恵、福田信之、森山欽司の5名の連名で
当時の文部大臣宛に『桐蔭学園の現状について憂慮する』という文章が送付されたがその3ヶ月後、
任期満了という理由で彼らは解任された。そして60年6月に柴田紘次も同理由にて解任された。
この柴田紘次の保存していた資料によって膨大な鵜川昇の悪事の数々が露見していき、
更なる大きな闇の真髄まで導いてくれたのである。
簡単にいうと、創立者柴田氏が亡くなった時から桐蔭の歯車が狂い始めたわけです。