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【 河原乞食と芝居 】
いわゆる河原乞食とよばれる賎民から生まれた芸能の世界
歌舞伎、人形浄瑠璃、万歳などへ発展していく系譜やその歴史と構造にはとても興味が湧きます。
このところ毎度紹介させていただいてる沖浦和光氏は近世の歌舞伎芝居は三層構造になっていたといいます。
「上層にあったのは、京、大阪、江戸のいわゆる三都の町奉行から櫓免許を得ていた、天下公認の大芝居である。
中層にあったのは、神社や寺院の境内で興行していた小屋がけの芝居、いわゆる宮地芝居である。
興業は百日に限られていたので百日芝居とも呼ばれたが、見物席には屋根がなく、櫓、回り舞台、引き幕は許されなかった。
低料金なので繁盛したが、天保の改革で全国的に取払いを命ぜられて断絶した。
それよりもさらに下層にあったのが、「役者村」から出た旅回りの一座であった。」
大芝居の役者たちは、近世中期からいちおう脱賎民化したとはいえ、もともとの出自は「河原乞食」であると、つねにさげすまれてきた。
四世市川団十郎の「錦着て たたみのうへの 乞食かな」という有名な句はその意識のあらわれ。
それで近世の歌舞伎は、享保、寛政、天保と幕政の大改革が行なわれるたびに弾圧をうけて、店天保期には、三座の大芝居も
ついに浅草猿若町に強制移転を命ぜられた。
穢多頭弾左衛門の敷地と非人部落に隣接する土地である。 かくして浅草の地に、典型的な〈悪所〉が形成された。
~ (以下略) ~
>それよりもさらに下層にあったのが、「役者村」から出た旅回りの一座であった。」
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