ルー・テーズat WRES
ルー・テーズ - 暇つぶし2ch1:お前名無しだろ
08/07/09 09:04:44 GOdVoODf0
立てました

2:お前名無しだろ
08/07/09 09:15:15 pYuLfXQM0
いくらでしこしこしてくれるの?

3:お前名無しだろ
08/07/09 09:15:24 GOdVoODf0
アクセス規制に巻き込まれている内にスレが消えてしまいましたので僭越ながら立てさせて頂きました。
引き続きHOOKER訳出を続けたいと思います。まずはTOP25から漏れておりました3人から。

4:お前名無しだろ
08/07/09 09:27:31 GOdVoODf0
ダニー・ホッジ:前代未聞のアマチュアで五輪出場選手。一度も足を取られたことがない。あるアマレスラーは私に
「ホッジは神だ」といった事がある。大学卒業後ナショナル・ゴールデン・グローブのタイトルも取っており、これは
彼の信じられないコーディネーションを証明するものだ。最もタフなレスラーの1人であり、いつも最高のナイスガイ
である。日本とUSでプロフェッショナル・レスリングに重大な信用性をもたらした人物である。

5:お前名無しだろ
08/07/09 09:34:00 GOdVoODf0
ディック・ハットン:偉大なアマチュアで、260ポンドもあるのにリング上ではフェザー級のように動けた。ディックが
プロフェッショナル・レスリングに与えた最も大きなインパクトは、彼が業界に参加したことだ。彼は徹頭徹尾レスラーであって、
ブリスコ同様に、コンペティションはオフィスでなくマット上で、と望んだのである。

政治家ではなかった、ということでしょうか。

6:お前名無しだろ
08/07/09 09:41:17 ehHo1P2j0
おちんちん

7:お前名無しだろ
08/07/09 09:51:34 GOdVoODf0
レオ・ノメリーニ:プロのフットボール・プレイヤーからプロフェッショナル・レスリングに転向した中で、ただ1人
レスリングを理解できた男。サンフランシスコ49ERSでフットボール・プレイヤーであった名声をもとに財産を築いた。
尊敬と技量をもってレスリングをした、注目すべきチャンピオンであった。プロフェッショナル・レスリングに恐るべき
インパクトを与えたけれども、実際にはライフワークとするほどの情熱は持っていなかった。

8:お前名無しだろ
08/07/09 09:56:41 GOdVoODf0
チャプター17、プリモ・カルネラ戦、「そして喜劇は始まった」の続きです。

カルネラはドレッシング・ルームでの口論でまだ私に対してUPSETしていたから、私をぶっ壊そうとするかのようにロックアップ
してきた。彼は巨漢で、ボクサーになる前の若い頃はサーカスのストロングマンであった。私は反射的にクロスフェースし、偶然
カルネラの唇をカットした。カルネラはステップバックして手を口にやり、血を見て、そして怒りを爆発させた。

9:お前名無しだろ
08/07/09 10:38:54 GOdVoODf0
彼は私に向かって牡牛のように突進してきたが、私は彼を捕まえてコーナーへ押し込み、彼の腕を動けなくした。
デンプシーが中へ入ってブレークを命じたので、私は手を離しステップバックした。カルネラが手を下ろしたとき
私は一発ビンタをお見舞いした。カルネラは怒り狂ったに違いないが、私の怒りがどれほどのものか分かっていなかった。
自分の母国の問題だというのに福祉活動のプロモートに何も協力しなかったのだから。私はカルネラに運が向く前に
この茶番を終わらせることに決めた。

10:お前名無しだろ
08/07/09 10:45:43 GOdVoODf0
この時カルネラは完全に熱くなっていて、ファイトの態勢でコーナーから出てきた。ミックスド・コンテストでは
ボクサーはレスラーの敵には全然ならないから私は何も心配していなかった。その上カルネラは冷えた蜂蜜よりも
動きがのろまで、私は何故こんなうすのろが世界チャンピオンとして売り出されたのかさっぱり理解できなかった。
私はカルネラのリーチ内に入ってもう1度ビンタを食らわせ、ステップバックした。私はデンプシーに向かって言った。
「ヘイ、この役立たずはレスリングができないばかりか、戦うことすらできないぞ」デンプシーは肯いて静かに答えた。
「ああ、前から知ってたさ」

11:お前名無しだろ
08/07/09 11:02:02 GOdVoODf0
カルネラはジャブを食らわそうとしたが、私は射程距離外にいたので、彼は隙を探していた。私は彼に頭を取らせたかった。
そうすればグレコローマン・バックドロップを食らわせることができる。やがてカルネラはチャンスをくれた。カルネラが
片手を上げたとき、私は踏み込んで腕の下に頭を入れた。カルネラはすぐに私の頭を捕らえ、サイド・ヘッドロックに取った。
あとは簡単だった。彼の腰に腕を巻きつけて少なくとも顎の高さまで持ち上げ、カルネラの分厚い頭部に2人分の体重が確実に
かかるようマットをキックして、カルネラを後方へ叩き落した。アマチュアや未熟なレスラーによく見られることだが、
カルネラはどうしていいかわからず、バックドロップが彼を失神させた。あとはロールオーバーしてピンするだけだった。
カルネラは5分と保たなかった。

12:お前名無しだろ
08/07/09 11:13:38 GOdVoODf0
私がカルネラの上になったとき、偶然リングサイドのルディ・デュセックと目が合った。デュセックの顎はマットに落ち、手は
額に当てられていて、「オー、シット!」と言っているように見えた。デンプシーがカウントを終わって私の肩を叩き、
カルネラに向かって頷き、「お前さんは奴を殺したな」と言った時でさえ私は笑い続けていた。カルネラは意識が戻るまで
数分の間横になったままだった。

13:お前名無しだろ
08/07/09 11:20:41 GOdVoODf0
そのあと、ルディ・デュセックは苦悶の表情でドレッシング・ルームに戻ってきた。「何をやらかしたかわかってる
のか、テーズ?来週のサーキットでこの役立たずをメインイベントにブッキングしてるんだ。お前さんはカルネラを
台無しにしちまった。代わりをどうすりゃいいんだ?」私はルディに、タイツの埃を払って、お前さんが代わりを勤め
りゃいいさと言ってやった。なぜならルディは年はとっていたが、カルネラよりはましなパフォーマーだった
からだ。ルディは真面目くさった表情を保とうと努めたが、とうとう吹き出した。私の言った事が事実だと分かっていた
から。ボクサーとレスラーが出演する、プリモ・カルネラの一幕を見ようとチケットを買ったファンは、金を強奪されたも
同然であった。

14:お前名無しだろ
08/07/09 11:49:07 GOdVoODf0
カルネラは変人だったが、私がプロフェッショナル・レスリングで出会った中では、最高の変人というには程遠かった。NWAタイトルを
巡って、私が大変長い間現役であったことを考えて貰えば分かると思うが、大層多くのコンペティションがあった。もし候補者を挙げろと
言われたら、私はそれはチーフ・チュワッキだと答えるだろう。こいつは1930年代、数年間はポピュラー―・カードであったいんちき
インディアンである。

15:お前名無しだろ
08/07/09 16:23:10 GOdVoODf0
本名はジョージ・ミッチェルと言ったが、本名が知られるまでには長い時間がかかった。彼はインディアンの役を
徹底的に演じようと決意しており、誰に対してもそう振舞った。私が始めて彼を見たのはまだ子供の頃で、セント
ルイスのトム・パックスのカードでだった。のちに、パックスが他のテリトリーでチュワッキが良いカードだと
評判を聞いただけで、現物を見ずに雇ったいきさつを聞いた。最初のブッキングの数日前にセントルイスに着くと、
チュワッキはすぐにシティ・ホールの芝生にティピー(インディアンのテント)を張った。警官が駆けつけたが、
チュワッキは悪ふざけを続けた。

16:お前名無しだろ
08/07/09 16:24:09 uKZlHCAMO
良いスレあげ

17:お前名無しだろ
08/07/09 16:26:42 GOdVoODf0
「ホワイトマン、チチ・インディアン」彼は警官に向かってB級映画のインディアンのアクセントで話した。「この国、
インディアンの国。私、ここ、いる」警官は最後には彼を追い出したが、新聞がでかでかと書きたてた後だったから、
チュワッキはタダでたいした宣伝をしたことになり、凄まじいゲートを上げることになった。パックスは実際、この男で
何度か売り切れを達成することができた。

18:お前名無しだろ
08/07/09 16:32:14 GOdVoODf0
チュワッキは多くの人々に本物のインディアンだと信じ込ませたが、ときにはおかしな結果を招く事もあった。
例えば30年代後期のある夜、アトランタで私は試合をしたのであるが、その夜はチュワッキもブッキングされて
いた。セキュリティは非番の警官に任されており、何人かが夕方中ドレッシング・ルームの内外をうろうろして
いた。チュワッキはその1人と話を始め、そいつの銃を見て尋ねた。「ホワイトマンの弓矢だ」さて、警官は笑って
銃を手渡した。

19:お前名無しだろ
08/07/09 16:39:17 GOdVoODf0
チュワッキは、実は銃については習熟していたのであるが、その夜はインディアンになりきっていたから、
ぎこちなく受け取って、好奇心一杯で見つめ、部屋のまわりに銃口を向けた。最後に彼は洗面台に狙いを
つけ、警官が止める前に撃鉄を起こして銃を発射した。洗面台はぶっ壊れて、大量の水が間欠泉さながらに
噴き上げた。チュワッキは目を見開いて驚いた様子で警官を見つめ、そして洗面台を見つめた。「ウンフー!」
彼はぶつぶつ言った。「私、撃った、泉」警官は逮捕も何もしなかった。警官は自分が相手にしているのは
無知な野蛮人だと思い込んでいたからである。

20:お前名無しだろ
08/07/09 16:45:49 GOdVoODf0
やがて私はチュワッキのジェスチュアの内情を知ることができたが、それは父のおかげだった。私は自分のために
セントルイス市外の両親の田舎にトレーニング・キャンプを張り、週末にときどき、食事会(魚のフライをメインとした)
にボーイズを連れ出した。そのうちの一回にチュワッキが参加し、1日の殆どを私の父と話して過ごした。その夜、
皆が帰った後、父は私を座らせて真面目な話を始めた。「あの男を信用しちゃいけない」父はチュワッキについて話した。
「あの男は私よりもっとインディアンじゃない。あいつは本当はセルビア人のジプシーだ。チャンスがあればお前から
ひどい盗みを働くだろう」父は小さい頃ジプシーを大勢見ていたから、チュワッキのアクセントに気付いたのであった。

21:お前名無しだろ
08/07/09 16:53:17 GOdVoODf0
まさしく、確かにチュワッキは父の言うとおりのセルビア人ジプシーで、泥棒だった。冷たい言い方に聞こえるかも
知れないが、私が問いつめると、チュワッキは嬉しそうに認め、自分のことや仲間の生活~働いた詐欺のことや、
盗みに使うサルのしつけ方などを語り、私に部族のキャンプへ招待してくれさえしたが、そのキャンプはたまたま
両親の田舎のそばに設営されていたのだった。彼や彼の部族がどうやってアメリカへ来たのかは私には分からないが、
彼らの犯罪が人目を引くような時に、他に収入を増やす方法が必要であり、それでレスリングの世界に入ったのだった。

22:お前名無しだろ
08/07/09 16:59:37 GOdVoODf0
チュワッキの幸運は、第二次大戦が始まる前に彼とその部族がインディアナのセイモアで逮捕されて、すぐに尽きた
ようだ。私はまざまざと覚えているが、彼らは印刷技術を学んで、偽札を作り始めたのである。義理の兄弟が偽資金を
運び、分け前を渡し、同時に請求書を渡し、それをパスする。連邦捜査官が彼らを追跡し、偶然にも最初につかまった
のがチュワッキであった。彼は命惜しさに仲間を垂れ込み、義理の兄弟や部族の仲間を警察に送り込んだのだった。

23:お前名無しだろ
08/07/09 17:07:57 GOdVoODf0
戦争が始まると、チュワッキは舞台から姿を消した。我々は、おそらく彼は親族から逃げているのだと思った。
やがて彼は海軍の中佐として再び姿を現した。チュワッキの正体を知っている我々には1種のショックであったが、
やがてエド・ルイスがいきさつを知ることになった。エドはFBI長官のエドガー・フーバーと親しい友人で~2人とも
敬虔なクリスチャン・サイエンスの信者で、それがもとで知り合ったのであるが~エドが訪問した時にディナーの後
フーバーが明かしたのには、予想される犯罪を見張るために、チュワッキを秘密情報提供捜査員としてリクルート
したのであった。フーバーは泥棒を捕まえるのに泥棒を配置したわけで、チュワッキに辞令を得させるために、自分の
政治力さえ用いたと言う。私はチュワッキを知っているだけに、政府は何とまあ丁重な扱いをしたものかと不思議に
思わざるを得ない。

24:お前名無しだろ
08/07/11 09:36:40 fSAxAa4C0
もう1人忘れられない人物は~私は彼に対して暖かいフィーリングを持っている~アンドレ・ザ・ジャイアントである。彼は
1993年に亡くなるまでパフォーマーとして活躍を続けた。本名アンドレ・フェレ、母はフランス人、父はベルギー人で普通
サイズの人間だったが、彼自身は異常発達の原因となる下垂体疾患、末端肥大症に苦しんでいた。アンドレに関して最も信じ
られないことは、彼が最高にナイスで寛大な人物であったことはさておき、その酒量だった。現役時代、大酒呑みは何人も
見てきたが、アンドレは断然世界チャンプだった。フルタイムで酒に身を捧げており、彼にとってはライフワークだったので
あろう。モントリオールに大変立派なレストランを持っていたが、我々は、アンドレが卸値で酒を飲むために購入したに
違いないと思っていた。

25:お前名無しだろ
08/07/11 09:51:06 fSAxAa4C0
日本ツアーのある夜、アンドレはホテルの部屋でワイン1ケース~1リッター瓶6本~を呑んだ後、試合に赴いた。私自身
が目撃したことであるが、アンドレはドレッシング・ルームでさらに1ケースを1人で飲み干した。半分を試合前に、そして
いつもの5分間の仕事を終えた後残りの半分を片付けた。カードが終わればホテルへ取って返し、バーに腰を落ち着けて
閉店まで呑み続けるのであった。翌朝、レストランでアンドレと同席したが、朝食と共にビールの大ジョッキ5~6杯
を空けるのを見た。彼の酒量は驚くべきもので、勿論彼はそれだけのサイズを持ってはいた~6フィート11インチ(公称
より5インチ低かったが)で400ポンド以上~が、彼が酒を飲むのを見るたび、驚かされないことはなかった。

26:お前名無しだろ
08/07/11 09:58:29 fSAxAa4C0
最後の数年間、アンドレは両足の循環器系トラブルとひどい脊椎の問題を抱えていたが、おそらくは重過ぎる体重の
ためであって、階段を上ることも困難だった。もしアンドレがもう少し体に気を遣い、ジムで少しでもワークアウト
していたら、素晴らしい人体標本になりえたろうに。私はアンドレにそうしてほしかったが、それは彼自身のためでもあり、
私がアンドレのことを大好きであったためでもあるが、それだけではなく、アンドレがジョニー・バレンタインと
口喧嘩するのを見て楽しんでいたからでもあった。バレンタインは、私が見てきた中では、おそらく一番タフで度胸の
あるパフォーマーであった。

27:お前名無しだろ
08/07/11 10:14:45 fSAxAa4C0
ワシントンのホバート~シアトル市外の材木の町~出身のポーランド人の若者のジョニーは、プロフェッショナル・
ファイターを目指してトレーニングしている所を地方のプロモーターに見出された。ジョニーはプロに転向し、
1940年代後半のトップ・スターとなり、1975年までその座にあったが、その年、軽飛行機の事故で深刻な負傷を負い、
部分的な麻痺が残った。彼はもうレスリングができなくなったが、何も求めなかった。何故ならジョニーはタフネスと
純粋なガッツの頂点に登り詰めた男だったから。ファン達は彼のタフネスを感じて、群れを成してジョニーを見にやって
きたものだが、ジョニーが実はのんびり屋で、シリアスなチェス・プレイヤーで、オペラと上等のワインを愛する男だと
知ったらまごついたであろう。

28:お前名無しだろ
08/07/11 10:20:51 fSAxAa4C0
一旦ジョニーがテリトリーのトップに立てば、我々と試合が組まれるのは当然で、何年にも渡って何回も戦ったが、
そのプロセスを通じて、我々は大変良い友人同士となった。私はリング内の危険なポジションに絶対に持っていかれない
よう努めたが、それは、彼に打ち負かされるのを恐れた訳ではなく、私がさばくにはあまりにタフな相手だったからだ。
彼はジン・キニスキーみたいだった。試合で私をHOOKしようとし、危険に陥れようとした。彼はそれほどに強くて
コンディションが良かったから、私も真剣にかからないと大層やっかいな相手であった。

29:お前名無しだろ
08/07/11 11:09:54 fSAxAa4C0
彼とレスリングするのは大変楽しい事であったが、それは注意を怠らなければ、の話で、好みの技に私を捕らえると、彼は
笑って「この技はどうだい、テーズ?」とか「寸法に合うかな、チャンプ?」などと言ってさらに強く捻じ曲げるのだった。
ときには半分の角度で技を決めることもあったが、エスケープするのは容易ではなかった。私は専門のコーチを受けていた
から、ゲームのやり方を彼よりは少しばかりよく知っていたけれども、逃げるためにはときにはHOOKINGを必要とした。
もし彼が私と同じぐらい集中したレスリングのバックグラウンドを持っていたら、更に大変だっただろう。ジョニーはそれほど
に、信じられないほどタフだったから、そのおかげで何回か危ない場面を切り抜けることができた。

30:お前名無しだろ
08/07/11 11:15:57 fSAxAa4C0
一度テキサスで、オフィスの勧めで、最大のロデオショー、ヒューストン・ファット・ストック・ショーに出場し
牡牛に乗った事があった。これは“レスリングで最もタフな男対最もタフな動物”という宣伝用スタントだった。
ジョニーはロデオライダーではないから、始めの数ジャンプで牛は彼を振り落とした。彼が立ち上がると、猛獣は
向きを変えて彼に突進してきた。ジョニーはフェンスのそばにいたが、牛はあっという間に彼に迫り、アリーナ内の
誰もが、私を含めて、不幸な事が起こると思った。

31:お前名無しだろ
08/07/11 11:19:45 fSAxAa4C0
フェンスに間に合わないと知って、彼は唯一できることをした。攻撃に出たのである。拳を振り上げると、力いっぱい
牛の鼻をぶん殴ったのである。「バシッ」という音がアリーナ中に聞こえた。牛は突然立ち止まり、頭をブルブル振った
ので、その隙にジョニーはフェンスへと走った。棒高跳び選手のように、彼はたいした高さを飛び越えたのである。

32:お前名無しだろ
08/07/11 15:24:15 fSAxAa4C0
パフォーマーの多くがジョニーとレスリングするのをためらったが、それは我々が言うところの「VERY BIG HAND]」を彼が
持っていて、簡単にケガを負わせるからだった。このことを手ひどく学んだボーイが1人いる。名はジョー・パザンダック、
完成されたレスラーで、南カリフォルニアのブッキング・オフィスと支払いの件で揉めており、騒ぎを起こしてやろうと
新聞社と州のアスレチック・コミッションに行き不満をぶちまけた。コミッションは問題解決のため、パザンダックと
カリフォルニア・チャンピオンとでコンテストを行うよう命令したのであるが、その時のカリフォルニア・チャンピオンが
たまたまジョニー・バレンタインだった。

33:お前名無しだろ
08/07/11 15:36:39 fSAxAa4C0
パザンダックをOUTWRESTLEできると考えるほどジョニーは馬鹿ではなかったが、持ち前の気性がああだから、試合に出るよう
説得するのにさほどおだてたり強制する必要はなかった。ゴングが鳴り、ジョーは態勢を整えてコーナーから出てきたが、
ジョニーは動かなかった。ロープに触れてはおらず、規則から言えばリング内にいることになるから、レフェリーは出てくる
よう命じることはできなかった。数分間は何も起こらず、最終的にパザンダックはジョニーににじり寄って捕まえ、リング
中央へ引っ張り出すことに決めた。彼が射程範囲内に入ると、ジョニーは~ボクシングのトレーニングを忘れてはいなかった~
右手でパンチを食らわせて、パザンダックの右目はひどく切れた。パザンダックは振り切って再度トライ「したが、もう片方の
目にもパンチうを食らい、その目も切れてしまった。ジョニーは2発目のパンチでパザンダックが動揺するのを見ると、コーナー
を出て仕事にとりかかり、両手でパザンダックにパンチの雨を降らせた。ジョニーはパザンダックを手ひどく叩きのめし、出血が
あまりにもひどいので、数分間でレフェリーは屠殺劇を止めた。勿論レフェリーはプロモーションに雇われた人間であるし、
ジョニーをプロテクトしたことは非難されようが、この場合は正しい決定を下したのである~パザンダックは全く無力であった。

34:お前名無しだろ
08/07/11 15:41:56 fSAxAa4C0
数週間後、私はダラスで偶然ジョニーに出会ったので、あの試合について尋ねた。パザンダックがHOOKしてきたり
傷つけてくることが心配で、リング入りしたときはアドレナリンがまさに噴出していたんだ、と彼は言った。結果について
おかしな事に、と彼は笑いながら言った。ファンが増えたんだ、と。パザンダックはそのシチュエーションを自分のために
作ろうとしたのであるが、着せずしてジョニーを手助けしたことになったのである。

35:お前名無しだろ
08/07/11 21:19:33 9I7dst7D0
>>25
テーズとアンドレは日本で巡業が一緒だった事なんてあったかな?

36:お前名無しだろ
08/07/12 09:55:12 A6ZVLXIs0
別の意味から言えば、ひどい話だった。私はパザンダックが好きだったし、バレンタインとの試合が手ひどく彼の評判を
落とし、キャリアに終止符を打ってしまったのだから。彼は本質的にノー・ホールズ・バードの試合であることを良く
知っておくべきだった。こういう場合は多くの事が起こり得る~目や、歯や、髪を失うかもしれないし、ベルトから下を
蹴られるかもしれない。ベテランレスラーでさえ、熟練したストリートファイターには近づくなと、よくよく諌められて
いたものだ。友人のティム・ウッズはミシガン州立大学出身の偉大なアマチュアであったが、こういった状況で指を失った。
ウッズは南部のプロモーションで来るものは相手構わずレスリングをしていたことがある。これは、古いカーニバルのギミック
で、プロモーションのボーイと制限時間まで持ちこたえることができたら、賞金を出すというものである。その夜の相手は
バーのタフな喧嘩屋として有名なバイカーで、ティムは奴を捕らえてHOOKし、貼り付けにしたが、男はティムの指を咥えると
第一関節で噛み切ったのである。

37:お前名無しだろ
08/07/12 10:03:01 A6ZVLXIs0
私はジムやアリーナでその類の状況に巻き込まれないよう気を遣うのがやっとだった。私を倒して自分の評判を上げようと目論む
輩が回りにいつもいるように思われた。そんな輩を私が現実に片付けることができたかどうかは問題ではない。そいつのファンも、
サポーターも、自分の信じたいことを信じ続けるものだからだ。これにぴったりの男が頭に浮かんでくる。ラルフ“ラッフィー”
シルバースタインである。30年代後期のカレッジ・スターで、多くのオールド・ファンは非常なラフ・レスラーとして覚えている
だろう。

38:お前名無しだろ
08/07/12 10:15:20 A6ZVLXIs0
シルバースタインは多くの人々に「第一人者」とみなされており、彼自身もそう信じていたが、私はシルバースタインが
一度ならずケツの穴をさらすのを見ている。レイ・スチールは彼にひどく赤っ恥をかかせたことがあるが、それは、
ラッフィーの裏庭とも言うべきシカゴで、ラッフィーのマネージャーがスチールの悪口を言ったことに立腹したからである。
試合ではレイはラッフィーをエースアウトしてマットに倒し、足を掴んでラッフィーが立つのを助けては、また再びダウン
させるのをえんえん続けたのである。しまいにはラッフィーのファンですらスチールに喝采を浴びせたのだった。

39:お前名無しだろ
08/07/12 10:22:51 A6ZVLXIs0
また別の時には、オマハ出身の熱いアマチュア、ジョー・スカルペロと練習中にシルバースタインはマットから逃げ出した。
練習中、スカルペロはすでに数回シルバースタインを危機に陥れ、シルバースタインはもう沢山と心に決めたようだ。放棄
した言い訳は、昼食を遅く摂ったのと、その食事内容が練習に不向きなものだったというものだった。スカルペロは
シルバースタインの事が気に入らず、彼に言った。「明日は早めに食べておくんだな。もう一度やろうじゃないか」
シルバースタインは姿を見せなかったが、誰も驚きはしなかった。

40:お前名無しだろ
08/07/12 10:34:48 A6ZVLXIs0
シルバースタインと私の問題は、我々がほぼ同年代であること、またほぼ同時にプロフェッショナル・レスリングの世界に
入ったと言う事実から発展したことは間違いなかろう。彼はつねに自身と、アマチュア時代の成績に自信過剰で、そのくせ
トップ・カードになったことは、シカゴにおいてさえ一度もなく、だから彼が私の成功にムカついていたのはもっともだ~
若い頃、シルバースタインは私にトラブルを持ち込むのにご執心で、何故なのか訊くと、人々はそのように教えてくれた。

41:お前名無しだろ
08/07/12 10:46:33 A6ZVLXIs0
オハイオ州デイトンの試合を思い出すのであるが、これが。シルバースタインが私にどう振舞ったかの典型である。そのとき
私はひどく膝を痛めていて、1週間分のブッキングをキャンセルしようとしたのであるが、プロモーターのアル・ハフトは私に
出場するよう説得し、もうサーキットには宣伝が打ってあり、代役を探すとなるとテリトリーは損害をこうむるのだと言った。
こいつはヒューストンのプロモーターのジョージ・シゲルが、私のタイトルを奪おうとした時の主張と殆ど同じだった。
ハフトは短い試合でよいと言い、驚いた事にその約束を守った。

42:お前名無しだろ
08/07/12 10:57:03 A6ZVLXIs0
シルバースタインと私の試合の夜、私は試合前に彼の所へ行き、膝の事を離した。その時点では私の膝は曲げること
すらできなかったのだ。「今夜は膝に触らないでくれ」私は話した。「こいつが厄介を引き起こしているんだ」

シルバースタインはコーナーから出ると、最初に、案の定、私の悪いほうの膝にシングルレッグ・テイクダウンを
仕掛けてきた。もしロープに逃げられなかったら、私は完全に釘付けにされていただろう。私は勝ちに出たが、
彼は当然嫌がって、あたうる限り私をいたぶった。

43:お前名無しだろ
08/07/12 11:12:53 A6ZVLXIs0
当然、私はあの夜のツケを彼に払って貰った~何年間もの間に何度となく。彼にいい格好はさせなかった。一度
ヒューストンで90分ドロー・マッチを戦ったが、夏の真っ盛りで、エア・コンディショナーはなくて、リングライト
の下は120度もあったに違いない。30分経ち、シルバースタインは試合放棄しようとしたが、彼がレフェリーに試合を
止めてくれるよう懇願し始めても、私はそうはさせなかった。「からかってるのさ、レフ。奴の事は気にするな」
私は言った。シルバースタインの有酸素的コンディションは悪く、ただの400m走選手同様で、私は彼に無理やり
レスリングを続けさせ、しまいにはぼろ雑巾のようにグニャグニャになってしまった。こうして私は彼を罰した。
彼はドレッシング・ルームに担ぎこまれたが、消耗しきって疲労困憊であった。

44:お前名無しだろ
08/07/12 11:15:43 72RwkbaNO
うざいからsageでやれ

45:お前名無しだろ
08/07/12 11:26:35 A6ZVLXIs0
プロフェッショナル・レスリングでシルバースタインだけが唯一の間抜けだというわけでは、決してない。頭に浮かぶ
有名な男がディック・アフィルス、元フットボウラー、ディック・ザ・ブルーザーのリングネームで50年代に中西部で
ビッグ・スターになった男である。ディックのリング上のパーソナリティはビッグマウスの酒場の喧嘩屋というもので
あったが、中身を開けてみれば、現実にさほど遠くなかった。実際に喧嘩好きで、国中のポリスの事件簿に何回も名前が
載る結果になった。しかし、彼は自分がそう思っているほどタフではなくて、ことに本物のレスラーと揉めたときはそう
だった。彼はバーン・ガニアとの口論をドレッシング・ルームに持ち込んだことがあったが、ブルーザーがレッスンを
受ける結果となって終わった。

46:お前名無しだろ
08/07/12 11:58:49 es8PjnuX0
ご苦労様です。

47:お前名無しだろ
08/07/12 12:24:47 /n8oh7a3O
良スレ上げ

48:お前名無しだろ
08/07/12 22:00:15 9RBMr3gcO
ところどころでテーズのホラ吹き癖が出ていて面白いな

49:お前名無しだろ
08/07/15 03:12:53 Pp7Te9M+0
前スレ
スレリンク(wres板)
2006/11/28~2008/07/04
総レス数 1001
URLリンク(www.23ch.info)

50:お前名無しだろ
08/07/15 15:59:18 QScSvoty0
ディックはやがてインディアナポリスのプロモーションを手に入れ、ここはかって大したテリトリーであったが、ここを
極限まで使い果たした。何故なら彼は自身をトップスターとしてプロモーションするよう主張したが、それはかって大昔
自分が確かなパフォーマーであったからである。強大なエゴの持ち主で、身を引くよう言われても~それで彼のビジネスが
掬われるだろうと言うのに~聞き入れなかった。私はDr・ビル・ミラー~オハイオ州の偉大なスターで凄まじいラフ・レスラー
~とTVマッチを行ったが、この試合はドレッシング・ルームのボーイズたちを拍手喝采させた良い試合であったのに~オンエア
されなかった。ブルーザーがその試合を見るが早いかテープを消してしまったからだ。彼は誰かが自分よりよく見えることなど
考えられもしなかったのだ。同じ事がミラーのTVインタビューでも起こった。ミラーは来たるメインエベント、ブルーザーとの
試合をプロモートするためにテープ録画をしたのである。ミラーは自分のことを自慢し、自分のようなリアル・マンがいるのに、
何故インディアナポリスのファンはディックみたいな5フィート8インチのちび野郎を喝采するのか理解できないと言った。
申し分ないインタビューだったが、ディックは消してしまった。ファンに本当の身長を知られるのが嫌だったから。

ディック・ザ・ブルーザーだけじゃなく、他のレスラーについても話したい。彼らがいなければ、ランチや宴会やファンクラブ・
コンベンションに招かれてスピーチをして楽しんで貰うのに話のタネがなくなってしまうというものだ。
今何が起きているのかよりも、むしろ、彼らや昔の話をしたいと私は思っている。

以上、チャプター17終了で御座います。



51:お前名無しだろ
08/07/15 16:08:58 QScSvoty0
チャプター15

1958年にステーツに戻り、最後まで気にかかっていたのは、家にいることにするかどうかだった。私は引退しようと思えば
できた~セントルイスのマイホームの支払いは終わり、銀行には金があり、良好な投資物件もいくつか持っていた~しかし、
ヨーロッパで引退できなかったのだから、今までやって来た事をそのままシンプルに続けようと決めた。決断は簡単だった。
私はまだ42歳で、レスラーとしての歩みを失っておらず、それどころか、ヨーロッパで過ごした数ヶ月はリング内でもっぱら
レスラーとしてだけやってきたから、おそらく今までよりも調子は良かった。私は20年間のスターダム生活ですっかり駄目に
なっていたのだ~スポットライトが好きで、旅が好きで、優秀なレスリング仲間の先頭に立ってパフォーマンスするのが好きで、
そしてジムでコンペティションするのが好きだった。帰国した時からロードに出る準備はできていた。

52:お前名無しだろ
08/07/15 16:15:51 QScSvoty0
キャリアの中で大変いい時期だった。自分がコントロールすることができたし、報酬を分配する必要もなかったので。
モントリオールのエディ・クインとトロントのフランク・タニーが私の手ずるで、私に用があれば私に連絡を寄越すだろう。
報酬はNWAチャンピオンだった頃と同額で、ゲートの1割と交通費、交渉不可、というものだった。私は自分の望む時に
自分の望む場所でしか試合はしなかった。大抵は親しい友人がいて魚釣りが楽しめる土地、オレゴンやテキサスやカナダ
であった。

53:お前名無しだろ
08/07/15 16:22:42 QScSvoty0
この時期、異本は私にとって特に重要だった。毎年2回のツアーで、リキや彼のトップ・ボーイズとレスリングしてツアー毎に
数千ドルを稼ぎ、びた一文無駄遣いしなかった。また他の方法でもポケットを膨らませることができたが、それは懸命にも
ヨーロッパからインターナショナル・タイトルを持ち帰っていて、リキがそれを欲しがったからである。このタイトルに、特に
日本で大きな意味を持たせたことは私は誇りに思っている。勿論USのプロモーターの助力もある。毎週彼らがNWAチャンピオンを
使うことはできないし、私が出場するときにはインターナショナルタイトルを喜んでプロモートしてくれた。テキサスや
カリフォルニアでは、このタイトルは非常に信用のあるものとなった。

54:お前名無しだろ
08/07/15 16:23:56 QScSvoty0
訂正 異本→日本、懸命→賢明

55:お前名無しだろ
08/07/15 16:29:20 QScSvoty0
しかし、このタイトルが最も重んじられたのは日本だった。母国でスーパースターのステータスを高めるにはメジャータイトルしか
なかろうから、リキはこれを大層欲しがった。リキはこのベルトについてNWAと取引する気はなかったから、私とリキはツアーを
セットアップして、手始めにロスアンジェルスのタイトル戦で彼が私を打ち負かし、リキが帰国したら私が後を追って行き、失った
ものを取り返した。あのツアーは大したビジネスで、2人とも大儲けしたものである。

56:お前名無しだろ
08/07/15 16:36:28 QScSvoty0
のんびりした生活で、私はこんな暮らしが好きだった。しかし1962年遅くのある日、サム・マソニックから電話があり、
これが全てを変えた。私がNWAタイトルをディック・ハットンに譲ってから5年の間に、ベルトは1959年にハットンから
パット・オコーナーに、1961年にオコーナーからバディ・ロジャースに移っていた。ロジャースはかってないビッグ・カードで、
私の旧敵、トーツ・モンドと結んでNWAのメンバーに逆らっていた。ニューヨーク・オフィスのトーツと仲間はロジャースのブッキングを
コントロールし、自分たちのテリトリーで独占的にロジャースを使っていた。これはつまり、他のNWAプロモーターには、毎月ほんの
数日しかロジャースをい使えないと言う事である。

57:お前名無しだろ
08/07/15 16:40:35 QScSvoty0
「我々は困り果ててる。お前さんを頼りにしてるぜ」サムは言った。「トロントでロジャースと試合をする気はないか?」私は
どこででもやろう、と答えた。いつもお互いにいい稼ぎになったから。「よかろう、もう1度タイトルを奪取してもらいたい」
サムは言った。「今はトーツがロジャースをコントロールして、我々のチャンピオンを使えないようにしてるんだよ」

58:お前名無しだろ
08/07/15 16:53:52 QScSvoty0
何年も前に私は、トーツと彼のニューヨークの仲間をNWAに加入させたことで、サムを非難したことがあった。奴らのテリトリーは
広大であり、儲かっていたから、本当にNWAを必要としてはいなかったのだ。彼らは何年も我が道を行っていたのであり、私がその
時思ったには~正確に言えば後にはっきりするのであるが~彼らはおそらくNWAに加入した事をファンに伝えてすらいなかっただろう。
彼らがNWA加入に興味を持った理由は1つしか思いつかなかったし、トラブルを引き起こすと思われた。そして果たして、それは起こった。
トーツと仲間が心に抱いていたものは明らかだ。NWAからタイトルホルダーを奪って、自分たちのヘビー級チャンピオンを作り出す事である。

59:お前名無しだろ
08/07/15 16:59:51 QScSvoty0
サムのオファーは私のエゴにアピールした。私は金を要求はしなかった。その頃モントリオール、バッファロー、トロント
などで試合をすれば週1万ドル稼ぐことができたが、NWAタイトルを再びこの腰に巻く考えには抗いがたかった。サムは私に、
保証金を記帳しなくてもいいという色をつけてくれて、私は同意した。

ロジャースを試合のリングに入れるのは大層骨の折れる仕事だった。ロジャースはタイトルを失いたくないと思っており、また
一旦私とリングに入ってしまえば選択の余地はないことを知っていたから、ロジャースは私が予想していたとおりの事をした。

逃げたのである。

60:お前名無しだろ
08/07/16 03:05:19 93N2M8J+0
>>55
>手始めにロスアンジェルスのタイトル戦で彼が私を打ち負かし、リキが帰国したら私が後を追って行き、失った
ものを取り返した。あのツアーは大したビジネスで、2人とも大儲けしたものである。

力道ーテーズのインターの再戦なんてあったの?

61:お前名無しだろ
08/07/16 11:46:44 PHzuUk+i0
失礼しました、誤訳です。原著では「TRYING TO REGAIN」となっておりました、私のミスです。
「取り返そうとトライした」に訂正致します。

62:お前名無しだろ
08/07/16 13:58:11 k5nGFpMz0
>>60
インターを力道山に譲る前年のS32年に東京と大阪でやった
NWA戦と混同しているんじゃ?(東京時間切れ、大阪1対1から両リン)
それ以後の来日となると、S37の日プロ第4回ワールド大リーグ戦になるし。

アンドレと一緒に日本巡業の記録も見つからない。(つか、無いよね?)

63:お前名無しだろ
08/07/16 15:50:42 PHzuUk+i0
原著にも首をひねる場所が多々あります。ゴッチをオーストリア人と言ったり…
まあ執筆時にすでにかなり高齢でしたしね・・・

64:お前名無しだろ
08/07/16 16:06:00 PHzuUk+i0
最初にサムが試合を組んだとき、ロジャースはケガをしたと主張して、土壇場でキャンセルした。2回目を組んだときも負傷を理由に
キャンセルした。3回目に試合を組んだとき、サムはロジャースを呼んで最終決定を告げた。「もしまた約束を破ったら、お前さんの
金は」~この金とはオコーナーからベルトを獲った時NWAに預けた25000ドルのことだ~「チャリティに寄付することになるだろう。
本気だぞ」サムは言った。これは効いた。試合は1963年1月24日、トロントに決定した。ロジャースはやって来た。試合前、バック
ステージで、サムが100ドル紙幣で25000ドルを持って彼に近寄った。「おい、お前さんは今、トーツとマクマホンのために働いてる
し、奴らといい関係にあるに違いない。試合が終わるまで、私は彼らに金を持たせておかないが、なぜかわかるか?」ロジャースは、
トーツとマクマホンに対しては私と同じ意見を持っているようだった。「だめだ」彼はサムに言った。「お前さんを信用しよう。
預かっててくれ」

65:お前名無しだろ
08/07/16 16:08:09 PHzuUk+i0
私たちの試合はなんら記憶に残るものではなかった。何年にも渡ってロジャースに期待してきた類の試合だった。たった15分、
1フォール。ファンに何らかのアクションを見せ、私が望む事を成し遂げるには充分だった。

66:お前名無しだろ
08/07/16 16:13:49 PHzuUk+i0
これが、私の最後のNWAタイトル保持期間3年の始まりであって、今までよりも快適であったと言うべきだった。NWA会員
との関係も今までより良好だった。何故ならロジャースから代わって大きな支持を得たし、問題点いくるかについても
私は証明され、だから昔やらかしたような口論もなかった。ベルトに供託金を預けなくてもいい点以外、扱いは以前と
同じだった~3週働き1週オフ~アライアンスは約束をきっちり守った。サムは何回かあの古い手、「酌量すべき情状」
なる離れ業を私に使って、オフの週に私に試合をさせようとしたが、私はロードには出なかった。

67:お前名無しだろ
08/07/16 16:19:37 PHzuUk+i0
サムには失望したが、それでも彼だけがNWAを協調させ、機能させうる人物であった。皆が彼を信頼し、それは正当なことだった。
彼は地位を利用してセントルイスにアンフェアな利益をもたらすようなことはしなかったし、皆をハッピーに保とうと努め、彼らの
置かれた立場をよく見ていた。これらのことに感心も感謝の念さえも持ってはいたが、私は彼のフェアプレイのセンスに金を払っている
かのように、しばしば思えた。

68:お前名無しだろ
08/07/16 16:28:02 PHzuUk+i0
プロフェッショナル・レスリングにおける興味深い時代だった。タイトルを再奪取した時私は47歳で、同年輩の多くはリタイアしたか
リタイアに向かっていたから、周囲には多くのニューフェースがいた。この時期舞台に現れた偉大なレスラーが幾人かいて、中でも
最も注目に値するのはダニー・ホッジだった。オクラホマ大学で3回に渡りNCAAレスリングタイトルを奪取し、そのうえ、後には
ゴールデングローブのボクシングタイトルも取っている。ジャック・ブリスコはオクラホマ出身のハンサムなアメリカン・インディアン
で、ディック・ハットンとにた成績を残していた。ビリー・ロビンソンはタフな英国人レスラーで、ウィガンの有名なフッカーズ・
スクールで商売を学んだ。そしてカール・ゴッチ、彼はオースリア人で、彼もウィガンで過ごした人物だった。

69:お前名無しだろ
08/07/16 16:32:51 PHzuUk+i0
ホッジ、ブリスコ、ロビンソンは、しかし、珍しい人間だった。(なぜかゴッチが抜けてます)実際、フリークスと見なすこともできる。
何故なら現実のレスリング・スキルは昔ほど重要ではなくなってしまっていたからである。パフォーマーやキャラクターに門戸は昔よりも
大きく開けられ、リング内のプロダクトはスポーツというより喧嘩に似てきて、しかしプロモーター連中は、ファンが望むものを提供して
いるだけだと主張した。

70:お前名無しだろ
08/07/16 16:42:05 PHzuUk+i0
私が最後にタイトルを取ってから起きたもう1つの変化は、2つのスーパープロモーションのAWAとWWWFが生まれた事で、おのおの独自の
世界ヘビー級タイトルを持っていた。しかしNWAと異なり、AWAとWWWF~やがてWが1つ落ちるが~は、テリトリー以外では試合をしなかった。
ポイントをテリトリーに絞った「会社」チャンピオンだった。それぞれのエリア内では全くうまく行っていて、ファンを納得させる見地から
それぞれのタイトルが「本物」なのであった。

71:お前名無しだろ
08/07/16 16:52:18 PHzuUk+i0
AWAタイトルの設立についてはいささか責任があると言わねばならない。1956年、バディ・ロジャースはマネージャーのジャック・
フェファーの元を予告なしに去り、そのためフェファーは、ロジャースはフェイクであると決め付けたビラを印刷して報復した。
フェファーは人を雇って、ロジャースがブッキングされた先どこでもビラを投函させ、それは大いに注目されたので、ロジャースは
悩んで、セントルイスの試合後のある夜、私に語るには、フェファーのリーチから逃れるには、国を出なければならないかもしれない
ということだった。御存知のように私とロジャースは友人ではなかったが、アトラクションとしてのロジャースを尊重はしていたから、
モントリオールのエディ・クインに電話をかけ~ロジャースはモントリオールで出場したことはなかった~彼のためにいくつかブッキング
をアレンジした。エディには借りができたが、私はロジャースはクインに合うと思ったのである。私は正しかった。ロジャースは即座に
ヒットしたのだった。

72:お前名無しだろ
08/07/16 17:02:24 /bY674Be0
お。リアルタイムだ。
テーズの場合、ホラ吹いてるんだか本気で勘違いしてるんだかわからんよね(笑)

73:お前名無しだろ
08/07/16 19:25:03 TVEETcDQO
>>72
それじゃ信頼度0かよwww
カワイソスグルから勘違いということにしようよwww

74:お前名無しだろ
08/07/17 09:34:21 uk9uc+j60
6ヵ月後、ブッキングのためモントリオールに着いて、私とロジャースの試合が組まれているのを知った。エディ・クインと仲間の
ユーボン・ロバートは私が負けるのを希望したが、私は引き分けを主張した。エディとユーボンはそれが不服で、私がモントリオールに
来る度に~その頃は定期的に出入りしていたので~ロジャースに信用性を与えてくれるようせきたてた。

75:お前名無しだろ
08/07/17 09:39:29 uk9uc+j60
私を懐柔するための酒宴が終日催され、最後に、ユーボン・ロバートは腰を下ろして、もう一度私を説得にかかった。そのときには、
彼らのテリトリーに活性を与えてやれば彼らも落ち着くであろうから助けてやろうと思い、ユーボンに言った。「おい、1つだけ
分かって貰いたい。ロジャースは1度たりとも私を打ち負かせそうになったことはない。お前さんとエディはいい友人だから、誰か
プロモートしたyってもいいが、だがロジャースじゃない。誰か他を探すんだな」

76:お前名無しだろ
08/07/17 09:53:24 uk9uc+j60
そこで彼らはエドワード・カーペンティアではどうかと言ってきた。カーペンティアは筋肉質のパフォーマーで、モントリオールの
フランス系ファンに人気があったが、それは、ファンが、カーペンティアはフランス人だという宣伝を信じていたからである。
実際には彼はポーランド人の曲芸師で、エディ・クインに見出されたとき、パリのひどく最低のサーカスで働いていた。エディは
この男には潜在能力があると見て取って、いくつか基本的なレスリング・ムーブを教え込み、モントリオールへ連れてきて、そこで
1940年代の有名なフランス人ボクサー、ジョルジュ・カルパンティエにちなんで改名し、強くプッシュして売り出した。

77:お前名無しだろ
08/07/17 10:11:40 uk9uc+j60
彼はほとんどアクロバット専門で、ファンにたちまち受け入れられ、あっという間にホットな呼び物となった。私は
ユーボンとエディがカーペンティアの人気をさらに押し上げるのを手伝えてハッピーだった~ロジャースと縁を切らせる
ことになったろうから。カーペンティアとは3フォール・マッチを行い、私の失格で終了した。試合は2つの結果を生んだ。
1つには、カーペンティアの信用性を高めた。もう1つは、私はタイトルを防衛できた。何故ならNWAルールではタイトルは
ピンフォールかサブミッションのみで移動すると謳ってあるからだ。

78:お前名無しだろ
08/07/17 10:21:56 uk9uc+j60
数ヵ月後、1957年6月、エディはシカゴ郊外の野外スタジアムのカードをラインアップしたが、ここはフレッド・コーラーの
テリトリーだった。エディはコーラーとソリが合わず、いつも何とか痛い目に会わせてやろうと目論んでいて、それには、
コーラーの地元で敵対的な試合を運営するのが非常に良い方法だったわけだ。エディは私に電話をよこして、もう1度
カーペンティアと試合をす意思があるかどうか尋ね、私は勿論だと答えた。私とカーペンティアはモントリオールのときと
同じ内容の試合をし、これがカーペンティアの存在ををシカゴのファンの間で真にポピュラーなものとした。

79:お前名無しだろ
08/07/17 10:39:12 uk9uc+j60
しかし最後に笑ったのはコーラーだった。試合後まもなくエディからカーペンティアを引き抜き、試合結果を利用して、カーペンティアを
「無冠の」ヘビー級チャンピオンと認定したのである。カーペンティアはエディを裏切って馬鹿な事をしたものだ。彼は文字通り
飼い主の手を噛んだのであり、のちのち後悔することになる。私に取っては大した事ではなかった。
なぜなら、結果はNWAにはタイトル移動と認められなかったし、カーペンティアがチャンピオンと認定されたのはシカゴ他数ヶ所だけだったからである。

80:お前名無しだろ
08/07/17 11:01:58 uk9uc+j60
同じ頃、バーン・ガニアは中西部の北のテリトリーを、古いミネアポリスのプロモーターのトニー・ステッカーと組んで、
買いあさることを始めていた。売りに出ていたオフィスの1つはコーラーのもので、バーンはこれに飛びついた。カーペンティアは
当地で「無冠の世界チャンピオン」として好評をはくしていたから、ガニアは、しばらくはそっとしておくことにした。
1958年8月、ガニアは自分のためにタイトルを勝ち取った~彼が最初から目論んでいたものだが~が、それはオマハ、彼がテリトリー
に加えたもう1つの町においてであった。2年後、NWAがタイトル挑戦のチャンスをくれないと主張して(おそらく要請はなかったろう)
AWAと、独自のヘビー級タイトルの創設を公式に発表した。やがてガニアのプロモーションはプロフェッショナル・レスリングの場を
ロッキーマウンテン・ステーツとカナダの1部に限定していくことになる。

81:お前名無しだろ
08/07/17 11:07:06 uk9uc+j60
ニューヨークにベースを置くWWWFが舞台に現れたのは1963年5月、バディ・ロジャースが私にNWAタイトルを明け渡した
4ヵ月後であった。その背景については何も知らないが、トーツ・モンドとヴィンス・Srが、前年、ロジャースを他のNWA
プロモーターから独占しはじめたときから、いつかの為にプランニングしていた事は知っている。彼らはロジャースを
引き抜けばNWAタイトルも単純に手に入ると考えていたようだ。

82:お前名無しだろ
08/07/17 22:47:04 1vSD56Wf0
AWAができた経緯が良くわかります。
ありがとうございます。

83:お前名無しだろ
08/07/17 23:40:09 E8DfVk1y0
>>72
猪木と梶原一騎を足して二で割らないみたいな存在だなぁ。

84:お前名無しだろ
08/07/18 03:21:09 25KtwE6z0
敵を騙すにはまず自分から、みたいな点のある人だからねぇ

85:お前名無しだろ
08/07/19 09:24:43 UYQaZVOa0
私が推測するに、サムとNWAがロジャースと私を会わせた時に、彼らは自分たちのタイトルを作ろうと決心したのだと思う。
彼らが自分たちのテリトリー~東部大都市の多く、ニューヨーク、バッファロー、ピッツバーグ、フィラデルフィア、ボルチモア、
ワシントンDC,加えて時によってはマイアミやトロント~で、ブルーノ・サンマルチノという名のイタリア生まれの若いウェイト
リフターと手を組んでビッグ・ビジネスを進めている時に、おそらくどこかの時点でロジャースからサンマルチノへNWAベルトを
移そうと考えていたに違いない。これまた私の推測であるが、ロジャースはNWAの供託金25000ドルを失いたくなかったからこれを
拒絶し、だから彼らは、自分たちのタイトル創設を発表する前に、トロントでタイトルの持ち主が変わるのを待っていただけなのだ。

86:お前名無しだろ
08/07/19 15:17:31 ADgtxbcCO
ケチつけているのは流かジニアスか?w

87:お前名無しだろ
08/07/19 19:28:56 ePLZBNK20
サンマルチノってウェイトリフターだったんだ。馬鹿力が売りだったし納得

88:お前名無しだろ
08/07/19 22:56:49 L8EbXrJu0

流さんのテーズ本の翻訳は翻訳じゃなくて創作だなんてどこかに書いてあったが
ここまでの原本の訳を読む限り全くの創作じゃなさそうだね

89:お前名無しだろ
08/07/20 10:48:24 F0ZOkjiRO
流版との大きな違いといえば、前スレで訳していただいてましたが、
日本ではプロフェッショナルレスラーと見なされていて流氏の本でも
テーズがそう評価しているように書かれていた猪木も、原作では
パフォーマーの範疇なんですね。

猪木こそアメリカンスタイルだと誰か言っていたのがよりリアルに
感じると共に大きなショックを感じました。

90:お前名無しだろ
08/07/20 10:54:23 yEedczHI0
つーかホーガンのパフォーマンスや客の煽り方とかは
猪木の影響を受けまくってるのが見てりゃわかるからねえw

91:お前名無しだろ
08/07/20 11:09:39 Fl74D+S70
>>89
猪木自身はそういうイメージ付けに成功したけど
テーズの視点からはシュートの技術をきっちり習ったとはいえないんだろうね。

ゴッチとの接点にしても
日プロ時代は猪木の専任コーチではなく
若手・中堅(道場での合同練習にでていた選手)のコーチだったし
新日では初期はブッカーだったし
フロリダ在住だったからそっちに行ったレスラーしか実際にはコーチしてないわけだし。

92:お前名無しだろ
08/07/20 11:17:36 yEedczHI0
>>91
日プロ時代の馬場VSブラジル戦の画像で試合前に
馬場とゴッチが談笑してる姿が流れてたなw
新日旗揚げ時にゴッチしか売りになる外人レスラーがいなかったから
「妥協を知らない最強の男」とかゴッチを神格化したわけでね
猪木本人が「俺がゴッチを神様にしたんだよ」と言ってるし
(ゴッチも実像はちゃんとショーマンシップもあったし
サンマルチノみたいな団体を引っ張るスーパースターではないにせよ
そこそこ売れてて仕事があるレスラーだったと最近は指摘されている)

93:お前名無しだろ
08/07/20 15:10:32 +dXEX3ez0
それこそ藤原っぽいね。ゴッチは
「ちゃんとした技術を持ってる人が説得力のあるショーを見せる」
ってのが理想だったんだと思う。

94:お前名無しだろ
08/07/20 22:15:52 095gcGJi0
ゴッチは日本では1960年代から「神様」と呼ばれていた
らしいから、猪木の影響だけということはないと思うけど。

95:お前名無しだろ
08/07/21 01:47:26 QHq5mKc+0
>>94

ゴッチは初来日以降、既に日本で‘実力ナンバーワン‘って扱いを受けてたらしいからね
後にNWAチャンピオンになる八ットンの初来日時にシングルでコテンパンに伸された吉村道明が
試合後に記者連に『イヤ~強い!クラウザー(ゴッチ)より強いよ!』ってゴッチの強さを前提にハットンを評したらしい

96:お前名無しだろ
08/07/21 08:52:28 5hTO5WON0
ロジャースはWWWFの初代世界ヘビー級チャンピオンだったが、防衛戦は一回きりで、王座に君臨できたのはきっかり47秒だった。
ロジャースは私とのタイトルマッチの後、イーストコーストへ戻り、ニューヨーク・オフィスにブッキングされたが、タイトル
移動後2ヶ月後、深刻な心臓病で入院した。トーツ・モンドとマクマホンSrがMSGでのサンマルチノ戦(1963.5.15)をブッキング
したとき、ロジャースがいた場所は病院だったのだ。くそったれ共はロジャースを文字通り病院から引きずり出し、MSGへと引っ張って
行き、腰に新しいベルトを巻かせて、あっという間にピンされるためにリングへ放り込んだのである。あまりにも早かった~1分と
かからなかった~ため、ファンは単純にサンマルチノはロジャースより凄く強いのだと思い込んだ。しかしこの結果は、ロジャースの
努力が最小限で済むようプランされたものであって、ロジャースは試合後すぐさま病院へ戻ったのだった。この試合が事実上、ロジャースの
長いキャリアの最後となった。~70年代に復帰して数試合をこなしはしたけれども。幸いロジャースはキャリアを通じていくらか蓄えが
できていたから、その後再びリングへ這い戻る必要はなかった。

97:お前名無しだろ
08/07/21 09:01:55 5hTO5WON0
サンマルチノは北東部ではずば抜けたスターとなった。ここのファンは今でも彼のことをオールタイムで最も偉大なレスラー
の1人だと考えている。これはニューヨークにベースを置いている利点の1つで、ニューヨークはいまだに世界のニュースメディアの
中心地であり、ニューヨークのメディアが信ずる事は何でも~メディア自体、視聴者と同じくらいだまされやすいのであるが~
真実とされるのであり、彼らは疑いもなくサンマルチノを信じたのである。事実を言えば、サンマルチノはしょぼいパフォーマーで、
レスリングの知識は無いに等しく、リング内のプロダクトは怪力と喧嘩だけだった。テリトリー外でスターになったことは1度もなく、
しかしこの地域では絶対的な王者で、「生ける伝説」と呼ばれ、彼の成功は信じられないほどの個人的なカリスマに負うところ大であった。
正真正銘のナイスガイであり、たまたまレスラーにならなかった同僚たち(ウェイトリフターの仲間でしょうか)に尊敬され、激しさと
正直さを発散している人物であり、それが彼をよく信用できるパフォーマーたらしめたのだった。

98:お前名無しだろ
08/07/21 09:10:43 5hTO5WON0
私は、キャリアを通して、正統な世界ヘビー級レスリングチャンピオンは1人であるという状況を作るためにはできるだけの
事をしてきた。だから、AWAやWWWFのライバルタイトルが生まれた事には悩んでいるように見えたかもしれないが、しかし、
私はその様な事は無視してわが道を行っていたというのが事実である。私は、こんんあ状況を生んだ責任の大部分はNWA自身に
あるのだと思っている。NWAは何年も強いリーダーシップも、またビジネスの知識も発揮していなかった。NWAは1950年代には
強い影響力を発揮していたものだが、もはやその力は無く、ライバルの作戦に門戸を開いてしまった。NWA理事会のメンバーは
APPEASERだった。」彼らは「APPEASERとは最後に喰われたいと望む人間である」ことを知らなかった。我々はトップを目指して
進路を切り開いたが、交渉力の弱さゆえにトップの座を失ったのである。

99:お前名無しだろ
08/07/21 15:20:41 H8vqGZQaO
>>95
実力者の一人でナンバーワンではないでしょ。

100:お前名無しだろ
08/07/21 22:14:45 FAKejz5t0
技術ナンバーワン、かな。
ジャーマンとか日本人は知らなかったしね。

101:お前名無しだろ
08/07/22 17:27:41 9h8yk8i00
複数のチャンピオンシップが存在することについては、私にできる事はあまりなかったから、その日その日をエンジョイし、
できるだけ多く稼ぐことに私は満足していた。そのうえNWAタイトルには伝統があって、世界でもこの国でも認知されていた
から、依然として最も信用のあるタイトルであった。それゆえ、プロモーターが認めた上で、AWA圏の中でもWWWF圏の中でも
数回防衛戦を行った。

102:お前名無しだろ
08/07/22 17:32:56 9h8yk8i00
皮肉なことだが、王座にあった3年間で最も記憶にある試合は、かってなかったタイトル対タイトルの試合で、1965年に
私とサンマルチノの間で行われた試合である。存在する3タイトルのうち2つを統合しようとするもので、もしそうなれば皆が
大儲けできただろう。残念ながらそうはならなかった。たった1つ満足だったのは、トーツ・モンドに、もう一回、そしてこれが
最後になったが、昔奴が私やボーイズ全員に30年前にやってくれた仕打ちの仕返しができた事だった。

103:お前名無しだろ
08/07/22 17:42:19 9h8yk8i00
ニューヨークの連中ふぁサム・マソニックに電話をよこし、お互いのビジネスについて話があるのでミーティングを持ちたい
と言ってきた。それで私とサムは彼ら~トーツ・モンド、ヴィンスSr、そして古い友人のトロントのプロモーター、
フランク・タニー(彼はニューヨーク・オフィスと少々付き合いがあった)~に会うべくシカゴへ飛んだ。モリソン・ホテルの
スイートで彼らが提案したのは、私とサンマルチノでタイトル対タイトル戦を行う。場所はMSG、他のニューヨークの体育館と、
ブッキング可能なできる限り多くの北アメリカの都市でクローズド・サーキットを行う、と言うものだった。あの頃、クローズド・
サーキットTVは全く新しいシステムで、もっぱら大規模なヘビー級ボクシングマッチの放送に用いられており、ニューヨークの
連中はリサーチの結果、1試合で100万ドルを見込めると充分な確信を抱いていた。MSGのライブゲートでもチケットを値上げして、
クローズド・サーキットとは別に20万ドルが見込める、と彼らは言った。

104:お前名無しだろ
08/07/22 17:48:06 9h8yk8i00
試合であるが、私の負けを彼らは要求した。見返りに私とサムは前金で25000ドルを受け取り、1年以内にサンマルチノとリマッチ
を行い、NWA王座を私が取り戻す、という保証書にサインする、というものだった。これが我々が受け取るトータルの謝礼らしかった。

サムは最初から乗り気で、マッチメイクに賛同の意を示し、すぐに私を説得し始めた。私は注意深く聞いて、頭の中でソロバンを弾いて、
殆ど無言だった。数時間後、私は同意した。彼らが私の言い値を呑むならば、という条件で。

105:お前名無しだろ
08/07/22 20:51:05 DfFtTi6u0
面白いですねえ。
サンマルチノvsロジャースで、どうしてあんなに短時間の試合だったのか、
長年の疑問が解消されました。
そういえば、キッド・スミスのWWFタッグタイトル移動も、
怪我で動けないキッドを無理矢理病院から連れてきて試合させたとキッドの自伝に書いてましたね。
まあ、キッドの場合はリングインもできませんでしたが・・・

106:お前名無しだろ
08/07/22 21:58:07 ShDUJkuF0
ロジャースは70年代にちょこっと復帰した時も
心臓病の状態が悪化してすぐリタイアしたからねぇ

107:お前名無しだろ
08/07/23 05:01:18 TdrbDFyc0
第一に、と私は言った。私自身に10万ドルを前金で要求した。これは言い換えれば、いつもの10%フィー、クローズド・サーキット
TVの上がり100万ドルの1割である。またMSGのゲートの1割、これは当日リングイン前にキャッシュで。そして最後にエド・
ストラングラー・ルイスに3%支払うよう要求した。ルイスはNWAおよびレスリング全般に長期間多大な貢献をしてきたのであり、
記録破りのゲートの1部を得る資格のある人物であったからだ。

108:お前名無しだろ
08/07/23 05:07:44 TdrbDFyc0
トーツとマクマホンはショックを受けてお互いの顔を見つめあった。2人はリマッチにたいする25000ドルの現金ギャランティー
は我々を充分満足させうると思っていたようだが、私にとっては侮辱でしかなく、私はそう言った。25000ドルなら、私がNWAタイトル
でもって2週間で稼げる額であって、今回の試合はもっともっと価値のあるものなのだ。これが私の計算で最も重要なところで、
実際、NWAベルトとは非常に価値の高いものであって、私はトーツとマクマホンはリマッチを行うつもりがないのかと考えた。
彼らは金を没収され、ベルトは守られるであろう。

109:お前名無しだろ
08/07/23 05:09:43 TdrbDFyc0
マクマホンは最後に大声で言った。「前金でそんな金を支払うよう命じられるおぼえはない」彼は言った。
「お互いを信用して契約を結ぶのが当然だろう」

110:お前名無しだろ
08/07/23 05:56:08 br8TMbRO0
> たった1つ満足だったのは、トーツ・モンドに、もう一回、そしてこれが
> 最後になったが、昔奴が私やボーイズ全員に30年前にやってくれた
> 仕打ちの仕返しができた事だった。

最初にここを読んだ時は意味が分からず、タイトルを安売りしない鉄人の
プライドの高さに勝手に感心していたけど、続きを読むと分かるように、
若い頃のギャラが安かった恨みを30年間(自伝が出た時点では60年間)も
言い続けていただけなんだよな。テーズは歳を取って守銭奴になったわけ
じゃなく、プロレスを始めた時から金銭に異常な執着心があったようだ。

111:お前名無しだろ
08/07/23 08:54:27 TdrbDFyc0
私を笑わせるのに充分だった。信用しろだと?私は2人をよく知っており、また、私自身がこれまで、自分の金を正直に
要求することのない馬鹿者であったことを分かっていた。
これが条件だ、と私は言い、意見を変える事はしなかった。

112:お前名無しだろ
08/07/23 08:56:34 TdrbDFyc0
するとトーツは、立ち上がり暖かく誠実そうな口調で言った。「ルー、君と差しで話がしたいんだがね」
古狐は、マソニックは説得できたと踏んで、最後に残ったハードルは私だった。

113:お前名無しだろ
08/07/23 09:15:26 TdrbDFyc0
我々はバスルームへ行き、ドアを閉じると、トーツは話し始めた。「おい、ルー。俺たちは長年不和だったし、友人の
エド・ルイスによるとお前さんは一旦心に決めたら簡単には揺るがないそうだな。だがお互い道理をわきまえた大人同士だ。
ここだけの話だが、我々に協力してくれるなら、試合後すぐ、個人的に私が自腹で25000ドルのボ-ナスを出そう。一晩
考えちゃどうだ?」

114:お前名無しだろ
08/07/23 09:19:13 TdrbDFyc0
トーツが離している間、私は彼を見つめながら、ロスアンジェルスの日々を思い出していた。あの頃トーツは
我々には1試合10しか払わないくせに、自分は毎週5000ドルも儲けていたのだ。また、奴がしでかしたケチな
窃盗や詐欺や横領についても思い出していた。バスルームは適切な場所ではあったが、私はこの男と同じ部屋に
いることがたまらなかった。

115:お前名無しだろ
08/07/23 15:35:18 TdrbDFyc0
「トーツ」彼が話し終わり、私は言った。「今朝呑んだコーヒーの代金すらお前さんは持っていない。25000ドルの
ボーナスで何ができると思うんだ?これはビジネスの取引だ。お前さんと、仲間の泥棒連中が12万5千ドルを出すなら、
やろう。出さないなら、やらない・それまではたわ言は取っておくんだな」

116:お前名無しだろ
08/07/23 15:39:15 TdrbDFyc0
そして私はバスルームを立ち去った。立ちすくんだままのトーツを取り残して。さて、サムは私が熱くなっているのを
すぐに見て取って、メンバーにしばらく席を外させてくれと言った。サムが私に立腹しているのは分かったが、彼を
非難することもできなかった。この取引で何とか金を引き出そうと頑張っていたのだから。我々が何ドル生み出せたのか
は分からなかったが、私には後悔は無かった。

117:お前名無しだろ
08/07/23 15:51:33 TdrbDFyc0
他のメンバーに声の届かない場所まで来ると、サムは言った。「ルー、私はNWAのプレジデントだ。この試合を受けるよう
お前さんに命令することもできるんだ。なぜ協力しない?」私は答えた。「あんたが命令できるのは分かってるさ。さあ、
行って話しをつけよう。やるよ。約束する」この言葉はサムを驚かせた。「やるって?」彼は言った。「ブルーノに
負けてやるっていうのか?」

118:お前名無しだろ
08/07/23 15:53:31 TdrbDFyc0
「違うさ、サム」私は言った。「命令されたことをやると言っただけだ。試合を受けよう。だが負けは駄目だ。コンテストにする。
出て行って叩きのめすまでだ」これはサムを動転させた。「我々は同意できな・・・」

119:お前名無しだろ
08/07/23 15:59:04 TdrbDFyc0
「サム、我々は何についても同意なんかしちゃいない」私はさえぎって言った。「サンマルチノとの試合を受けろとお前さんが
命令したいなら、私は従わなくちゃならない。私がお前さんに言ってるのは、私はサンマルチノを叩きのめすつもりでいるって
事だ。私がそうできるって事はあんたも、連中も、サンマルチノだって分かってる筈だ。さあ、行って試合を決めてこいよ。
少なくとも、気がかりなせこい世界タイトルを1つ持って試合から帰ってくるだろう。そしてお前さんがここ何年も私に嘘をついてきた
のでなければ、こいつが、我々が成し遂げようとしてきたものだ」

120:お前名無しだろ
08/07/23 16:14:32 TdrbDFyc0
さて会話は終わった。サムは私の言わんとしたことを理解し、我々は連中のところへ戻った。私は、提示した条件に同意
しなければ、取引はなしだ、と宣言した。彼らは同意できず、だからこの試合は行われなかった。ニューヨークの
泥棒連中も含めて、我々にとってどちらが不名誉だったろうか。もし行われていれば、私は王座をサンマルチノに明け渡し、
1年間東海岸を行き来して試合をこなし、更に10万ドルか20万ドルを稼ぎ、でかいリマッチでゲートを上げただろう。
サンマルチノとニューヨーク・オフィスも利益を得たはずだ。NWAベルトはサンマルチノの信用性を更に増しただろうし、
他のテリトリー~日本も含めて~へブッキングの門戸を開けることができただろう。彼らはそれが読めないケチな人間たち
だったのだと、私は推測している。

121:お前名無しだろ
08/07/23 16:23:25 TdrbDFyc0
しかし昔のNWAチャンプの稼ぎって凄いもんですねえ。週1万ドルとして月4万ドル、日本円で1200万円ぐらいですか?
年収軽く1億円を超えますね。でも晩年のテーズはそれほどリッチではなかったようです。サイドビジネスで失敗が
続いたとも聞きます。猪木もそうですけど永久電機とかバカなものに投資せず貯金して堅実に暮らしていれば新日も
あんな体たらくにはならずに済んだでしょうに・・・

122:お前名無しだろ
08/07/23 20:19:38 xhoTwp0R0
堅実な生き方選ぶ人はプロレスラーにならない、とかそれだけ金があったら
堅実な生き方なんて出来ない、とか色々あるんだろうね。
とは言え海外のレスラーは事業で成功してる人も結構いるよね。
チャレンジしないと成功もないんだろうから難しい所ではあるのかな。

123:お前名無しだろ
08/07/23 20:26:44 vtT72m8B0
晩年のテーズは金がないから
日プロ、国際、全日、新日、Uインターとまんべんなく仕事をして
「雇い主が変わると言うことが変わるテーズ」と揶揄されたもんだ
ゴッチはゴッチでせまいアパートに住んでたしな
新日からたんまりせしめたはずのブッキング料はどこに行ったんだろ

124:お前名無しだろ
08/07/23 21:12:09 mUdn4OdN0
ゴッチは奥さんが亡くなって独り身になって
広い家に住む必要がなくなったとの事で
狭いアパートに引っ越したんじゃなかったっけ?

125:お前名無しだろ
08/07/23 21:18:24 dPU4W9Rl0
もしかしたらIWAのベルトを高値でマスカラスに売ったのか?

126:お前名無しだろ
08/07/24 11:01:03 U2mQMo4X0
仮に試合を受けたとしても、私は完全に気楽にやれただろうと思う。なぜなら、私とサンマルチノは既に一回試合を
したことがあり、その時彼は私に何もできなかったからだ。この試合は1963年3月14日にトロントのメープルリーフ・
ガーデンで行われた。私がロジャースからNWAベルトを奪った2ヵ月後、サンマルチノがWWWFベルトを勝ち取る2ヶ月前
だった。私はサンマルチノを30分でピンした。

127:お前名無しだろ
08/07/24 11:17:51 U2mQMo4X0
彼らが何故私とサンマルチノの試合を組んだのか、私には不可解である。サンマルチノは当時大変ホットなアトラクション
であったし、もっと大物になるのを目指していたのは明らかだったから、9000人ものファンの目の前で敗北させる意味は
なかった。こっけいな話に聞こえるかもしれないが、プロモーターのフランク・タニーは、サンマルチノが最後まで戦い
抜けないと心配したのかもしれない。フランクは試合前に私のドレッシング・ルームへ来て、1時間制限の引き分け試合を
提案し、私は同意した。「私は構わない。だが、サンマルチノにはハードな試合に備えるよう言ってやったほうがいいぞ。
ジュースを出すつもりなんでね」トロントはいつも快適な町で、あら探しをすつもりはなかった。私はタニーのビジネスを
傷つけたくはなかったが、と言ってサンマルチノを守るように見えるのも嫌だった。

128:お前名無しだろ
08/07/24 11:21:31 U2mQMo4X0
タニーと私は古い友人で、セントルイスのプロモーションではパートナーになったこともあったから、私のことを強情だと
思えば、何か私に言ってくるだろうと思っていた。しかしタニーは何も言わなかった。タニーは私の言葉をよくよく考えて、
しばらくしてから言った。「よし。行って、お望みの通りやってくれ」結果はご覧の通りだった。

129:お前名無しだろ
08/07/24 11:30:01 U2mQMo4X0
今になって思えば、サンマルチノはニューヨーク・オフィスに何か怒っていて、私と試合を組んで花を挫いてやるようにオフィスが
タニーに頼んだのだろうと思う。サンマルチノがトップの座にあって、大変なビッグ・マネーを稼ぎ出している時ですら、オフィスとの
関係は決して良好なものではなかった。何故かと言えば、サンマルチノは自分の権利を擁護することを決して恐れない男であったからだ。
1980年代初め、引退後のサンマルチノは長年にわたる給料不払いの件でマクマホンSrを訴えた~トーツ・モンドは1969年に引退していた
~訴訟は1984年に法廷で解決したが、ヴィンスSrは既に亡くなり、息子がプロモーションを引き継いでいた。サンマルチノはしばらくの間
プロモーションに復帰して、カラー・コメンテーターや、時にはパフォーマーを演じた。間もなく彼は退社したが、皆のことを激して
語った事は一度も無かった。これが私が彼を好きで、また尊敬している理由である。

130:お前名無しだろ
08/07/25 01:22:18 7qcQlAzO0

‘最後の4割打者‘テッド・ウィリアムの年俸が12万5千ドル(大リーグ唯一の10万㌦越え)だった時代に
テーズは15万ドル稼いでいたっていうのに、そのカネは一体どこへいっちゃったんだろう・・・

131:お前名無しだろ
08/07/25 01:51:59 ieToDquS0
アンドレ ザ ジャイアントはたしかギネスブックにも載ってたよね。
年俸世界一のスポーツ選手かなんかで。

132:お前名無しだろ
08/07/25 15:10:12 jFEmg8rG0
物事はどう転ぶかわからない。サンマルチノとのタイトル対タイトル戦が行われていたら、またニューヨーク・オフィスが
リマッチまでやり遂げていたら、私は7度目のNWAタイトル奪取をとげていただろう。だが試合は行われず、そのチャンスは
来なかった。タイトルをロジャースから勝ち取ってから、徐々にではあるが、またもやサムや何人かのNWAメンバーと私の
間に軋轢が生まれてきていた。昔と同じ理由から~私が嫌がるのに、オフ・ウィークに試合をしろと言い出したのだ~
1965年半ばには、私が辞めると決めても、彼らは悲しみはしないだろうということが明らかになってきた。もう充分だ。
私は皆をハッピーにしてやろうと決心した。

133:お前名無しだろ
08/07/25 15:16:14 jFEmg8rG0
その年のNWA総会で、タイトルを空ける潮時ではないかとためらいがちに提案する者がいて、私がそれに同意したから、皆は
大層驚いた。私は心中、後継者さえ決めていた~ジン・キニスキーである。鼻っ柱の強いカナダの元プロ・フットボーラーで、
優秀なパフォーマーに成長し、まずまずのレスラーであり、喧嘩屋としてビッグ・カードでもあった。私はジンが大好きで、
何故かと言えば彼はこの職業に尊敬の念を持ち、信頼できるものにしようと懸命に働いていたからである。彼は技術のあるレスラー
ではなかったが、積極的に私に挑戦してレスリングを行い、自らを試すことを好んだ人物だった。

134:お前名無しだろ
08/07/25 15:27:46 jFEmg8rG0
キニスキーはチャンピオンとして良い選択である、とNWAは合意した。そして私は1966年1月7日、セントルイスでタイトルをジンに譲った。
ロードで2回リマッチを行い、都合よくファンの興味を引く事ができ、そしてそれは、私の長年にわたるNWAとの付き合いの終わりでもあった。
サンマルチノとの試合の件で、サム・マソニックとの関係はそれまでで最悪となったが、数年後友情は戻り、サムが亡くなるまでそれは続いた。
プロのストレスを何年も耐えて生き抜く友情、これこそ素晴らしい友情ではないか!

135:お前名無しだろ
08/07/25 15:33:53 jFEmg8rG0
NWAの会員については、何人かのプロモーターとはうまくやっていたし、何年も彼らの為に試合をしていたが、組織自体はもう
たくさんであった。円満な離婚だった。2つのパーティーが脱退を希望し、面白い事には、私がいなくなればNWAチャンピオンの
問題が終わると言うわけではなかったのである。ジン・キニスキーは(私がそうだったように)あらゆる点で石頭で気難しいという
ことが~NWAから見れば、の話だが~明らかになってきた。タイトル奪取後3年経つと、彼も、ペイオフの「為に試合をしたり、
オフ・ウィークにレスリングをする事にうんざりしてきた。彼は幸いにチャンピオンの座を降りたが、のちにNWAベルトを巻いた
ものも同様であった。

136:お前名無しだろ
08/07/25 15:36:55 jFEmg8rG0
エド・ルイスを失ったことを除けば、1966年はフリーランスに戻った年であり、よい思い出の年であった。エドは76歳で、完全に
引退して7番目の妻とオクラホマのタルサで暮らしていた。私は夏の間ここのテリトリーでいくつかブッキングがあったから、エドの
会社でフリーな時間の殆どを過ごした。

137:お前名無しだろ
08/07/25 15:43:05 jFEmg8rG0
オクラホマの最後のブッキングの数日前、エドは、古い時代のために一緒に出かけようじゃないかと提案した。翌朝、
オクラホマシティまで車を走らせ、スキラーン・ホテル~素敵なアパートメント・ホテル(註:長期滞在用の割安な
アパート形式のホテル)で、一緒にツアーしていた頃お気に入りだった宿泊所の1つ~で1日過ごしたいんだ、と彼は
望んだ。この老人のためなら何でもするつもりであったし、オクラホマシティへの日帰り旅行で彼が幸せになるのであれば
喜んで望みをかなえてやろうと思ったのである。

138:お前名無しだろ
08/07/25 15:50:50 jFEmg8rG0
スキラーン・ホテルの人々はみんな、一目でエドとわかったから、予約は必要なかった。我々はチェックインして、いくつか
食べ物を注文し、1日中語り合って過ごした。実際にはエドが殆ど1人でキャリアの思い出話、今は亡き人々の話、良かった時代
の話などを語った。午後遅く、我々はチェックアウトしてタルサへ戻った。我々が共に過ごした最後の時間だった。
私は翌日テリトリーを後にした。

139:お前名無しだろ
08/07/25 15:55:48 jFEmg8rG0
私はエドが身体的に不調であることに気付くべきだったが、数週間後、病状が重くてMUSKOGEEのベテランズ・ホスピタル
に入院していると聞くまで、気付かなかった。エドが一緒にオクラホマシティへ行こうと求めたとき、彼はもう最後が近いと
感じていたのだろうと悟ったのは、この時だった。私はテキサスのテリトリーで試合をする予定だったので、ダラスへの道中
タルサへ立ち寄り、彼に会うため病院へと車を走らせた。

140:お前名無しだろ
08/07/25 17:08:54 jFEmg8rG0
私が病室へ入ったとき、エドは車椅子で眠っていた。夜間苦しんだので、と医師たちは言った。私の到着する少し
前に、鎮静剤を与えたのだった。私は間に合う飛行機を捕まえ、伝言を残して空港へ取って返した。
これが、最後に彼を見た時であった。

141:お前名無しだろ
08/07/25 17:11:30 jFEmg8rG0
その夜、ダラスのスポータトリアムで、ジャック・フェファーか電話を受けた。彼はユダヤ系ロシア人で、長年この
ビジネスで華やかに活躍してきたプロモーターである。彼は病院の近くで降りて、私が会ったすぐ後にエドにあった。
医師たちは、エドは急速に衰弱しつつある、と言った。

142:お前名無しだろ
08/07/25 17:15:36 jFEmg8rG0
「エドはもう駄目だ」フェファーは言った。「逝く前にあんたがこちらへ戻ってこられればいいんだが」私は翌日
サンフランシスコへ行かねばならず、すぐに戻るのは不可能だった。私はフェファーに、できるだけ早く戻るつもりだが、
間に合わないだろうと告げた。8月7日、エドは永眠した。

143:お前名無しだろ
08/07/25 17:19:15 jFEmg8rG0
エドに対する私の感情がいかに深いものだったか、言葉であらわすのは難しい。エドは私のアイドルであり、師匠であり、
アドバイザーであり、そして偉大な友人であった。彼は人生を愛した。普通の人間がパン1切れを食べるところを、エドは
パンのひと塊りを食べるように楽しんで自分の人生を生きた。彼はみずからの能力とパーソナリティの強さをもとにこの
職業を作り上げたのであり、私は彼の志を継いだことを誇りに思っている。

144:お前名無しだろ
08/07/25 17:23:40 jFEmg8rG0
エドがオクラホマシティへ一緒に行こうと私に言ったときの事は、まるで昨日のできごとのように記憶に残っている。
たぶん他にも私に伝えたい事があったであろうが、言わなかった。死期が近いと悟った彼が、あの時間を私と過ごしたいと
望んだ事は、私にとっては何物にも換えがたい事だ。彼の言葉は私の思い出となったが、これ以上に大事なものなど想像も
できない。

チャプター15、終了で御座います。師弟の愛情に涙せざるを得ません。

145:お前名無しだろ
08/07/28 17:42:54 dTt3/3qS0
だからワシは言っとる!プロレスにおいて八百長と言う言葉は死語になったと!
だって誰一人真剣勝負だと思ってないんだから!

          I編集長

146:お前名無しだろ
08/08/03 00:40:30 9oPR2iSdO
>>144
流本の未訳部分をまた御願いします。

147:お前名無しだろ
08/08/04 09:23:32 PhE7qaQJ0
毎日暑いですね。では引き続きチャプター16です。

ロンドンのロード・アルバート・ホールで1957年12月に試合をして以来、ダラ・シンは、私にインドへ来て試合をするよう
しきりにせっついていたが、タイミングが良くなかった。私は何かしら予定があって、ツアーをやりくりできなかった。


148:お前名無しだろ
08/08/04 09:33:53 PhE7qaQJ0
1966年遅く、NWAタイトルをジン・キニスキーに譲ってフリーランスに戻ったあと、ダラはまた電話をよこし、来るよう
せっついたので、今度は私も同意した。インドの新聞や雑誌は1957年の試合を、ダラの最も偉大な試合の1つとしてファンの
心に留めさせていたから、ダラと戦ってドローの持ち込んだ数少ない男の1人とのリマッチは、間違いなく成功すると思われ、
私は大儲けできそうだと考えていた。そのうえ私は相変わらず気ままなジプシーで、インドという国に好奇心を持ってもいた。

149:お前名無しだろ
08/08/04 09:50:59 PhE7qaQJ0
ダラがインドでどれほどのビッグネームだったか表現するのは難しい。初めて会ったときに既にムービー・スターであり、またスポーツの重要な
シンボルであtったが、あれからさらに大物になり、名物男となっていた。1957年の英国ツアーは、とりわけ母国で彼にとって利するところ大で
あって~英国女王との会見の新聞写真や大英帝国タイトル防衛に関する多くの報道など~彼はインドへ帰国し、ヒーローとして大歓迎を受けた。
私が始めてインドを訪れたとき、彼は国一番の財産家で、大地主であった。

150:お前名無しだろ
08/08/04 10:49:22 PhE7qaQJ0
以前にダラと行った試合のおかげで、私もインドで有名になっていることは分かっていたが、ボンベイに到着して私はまごつき、
これは大変な事だと思った。宣伝は驚くべきもので~連日の新聞記事と写真、ニュース映画のクルーは私を取り巻き、10フィート
四方の巨大なポスターが町中に貼られていた。試合はサッカースタジアムで開催され、60000人の観客を動員した。25セントの席に
いた田舎のファンは、あまりに遠すぎて我々がリングにいるのも見えなかった。

151:お前名無しだろ
08/08/04 14:05:16 PhE7qaQJ0
2週間後、ニューでリーの別のスタジアムで行われたリマッチでは、状況は全くワイルドだった。実際、驚くべきものだった。
抜け目のない連中が偽造チケットを印刷して通りで販売したのである。スタジアムには約50000人分の座席があり、ここが満員で
ゲートの外側に何千人もの人々がチケットを振り振り、入場させるよう要求しているのだから、何が起きるかは明白だった。
警察はゲートに鍵を掛けたが、暴徒は~人々はまさしく暴徒と化した~近くの梯子を見つけ、15フィートの高さの壁へと押しよせた。
景観は鉛の付いた竹竿を持って待ち構え、右へ左へとぶん殴った。警官はまた催涙ガスをも持ち出し、そのため我々はドレッシング・
ルームにいられず外へ出たので、私はこれら全てを目撃することになった。ダラと私は、試合を進めなければ事態は更に悪化すると
考え、だから、リングへと進路を切り開いて、できるだけ早く仕事を終わらせると、そこを出た。

152:お前名無しだろ
08/08/04 16:25:49 PhE7qaQJ0
インドはそれまで私が経験したどの国とも、全く違っていた。貧困は凄まじかった。人々は本当にストリートで暮らしており、
全財産を背中に背負っており、衛生観念など殆どなかった。国全体が乞食ばかりで構成されているように思われる時もあった。

153:お前名無しだろ
08/08/04 16:37:39 PhE7qaQJ0
インドに中産階級があったのかどうか、私は見た事がない。しかし富裕階級はたしかにあって、王侯貴族のような暮らしをしていた。
それまで私は外国ではファーストクラスのもてなしを受けるのがつねであったが、インドでの魅惑的なもてなしは殆ど筆舌に尽くし
がたかった。日本にいる時、リキは常に私をスペシャル・ゲストとしてもてなしてくれたが、ダラはその上を行っていた。空港や駅
にはいつもリムジンが私を待っており、宿泊は完璧にデカダンなホテルであり、行きたい所にはどこでも行ける特権が与えられ、
ツーリスト・トラップから、特産品や土産を値引きで買える店まで、エスコートが付くのだった。のちに一度、ダラは私を、ニュー
デリーのオベライ・ホテルへ泊まらせたが、ここは世界中の大金持ちや政治的な大物たちのための国際的人肉市場さながらだった。
ホテル全体が大使館員、第3世界の上流社会から来た人々、そして―甘やかされ、リッチで、退屈で、娯楽に飢えている大勢の
社交界の女性たち―で占領されているかのようだった。私はアイスクリーム工場に放たれた子供同然だった。
ダラ・シン以上に私をもてなしてくれた人間はいなかった。

154:お前名無しだろ
08/08/04 16:44:15 PhE7qaQJ0
当然、何にも値段というものがある。ダラは自国での負けを望まず、私の負けかドローを望んだが、それに沿えて私は嬉し
かった。なぜかと言えば~勝ったとしても私のキャリアに利益はないかあったとしても僅かで、そしてもしダラが負けたら
インドの大衆はどう受け取るだろうか?全く不快な事だった。どちらがより良いレスラーか、この事には我々は決着をつけた
事がないが、どちらにとっても重要な事ではなかった。我々は上質な試合内容にしか興味はなかったし、その点では成功した。

155:お前名無しだろ
08/08/06 04:31:42 sHB1pzTg0
テーズがペールワンと対戦した(とされる)のはこの頃の話なんだろうか?

156:お前名無しだろ
08/08/06 09:34:52 G2a5kUAA0
1960年代、インドは私にとって非常に儲かる土地となったが、それは私とダラとの間に育った暖かい友情ゆえであった。
ヨーロッパ同様、インドではレスリングはリスペクトされる大衆的なスポーツであったが、伝統的にはもっと古くもっと
豊かなものだった。インドの最も偉大なヒーローの1人はレスラーであり、グラム・モハメッドと言う名のパキスタン人
であった。彼は1900年代初頭、「グレート・ガマ」の名でヨーロッパ、北米の到るところで試合を行い、見た人々は彼を
偉大な人物であると語った。彼はそれほど優秀なレスラーで、だからもう50歳になっていたにも関わらず。1928年、偉大な
スタニスラウス・ズビスコをストレート・コンテストで、僅か10秒で倒すことができたのである。インドのファンは、
アメリカのくだらないサーカスなどでなく本物を見る目もっていたので、私のレスラーとしての実績は大変役立ったのである。

157:お前名無しだろ
08/08/06 10:10:32 G2a5kUAA0
全てがうまく行っていたわけではない。それは私を試す人間がいたからである。一度、私がワークアウトに通っていた
ボンベイの公立ジムで、生意気なアマチュアが攻撃的な態度でやってきて、アメリカのプロフェッショナル・レスラー
や、ダラ・シンについてさえ、知ったかぶった事を話し始めた。彼が私にBACK DOWNした言葉は、その日のうちにジム中、
そして町中に広まってしまうだろうから、私はこの男を無傷で帰すわけには行かないと考え、今朝はこいつにレッスンして
やる事に決めた。何と言っても私にはシューターやフッカーと35年やって来た経験があるのだから、このパンク野郎が
私に教えてくれる事など何もなかった。

158:お前名無しだろ
08/08/06 10:37:25 G2a5kUAA0
だから私は餌を見せてやった。アメリカのレスラーはカーニバルの道化師だと同意してやり、また、ダラと兄弟のランダワール~優秀な
レスラーでありビッグスターだった~もペテン師だと同意してやった。私は小僧をワークアウトに引きずりこんでやろうと思い、しばらく
マットの上で一緒に練習しないかと言うと、彼はフライに食いついたマスのようにジャンプした。

159:お前名無しだろ
08/08/06 11:26:05 G2a5kUAA0
奴の仕掛けてくる事は分かっていた。彼がシングルレッグ・テイクダウンを取れるよう足をくれてやったが、これは
レイ・スチールが何年も昔に教えてくれた古いトリックで、彼はその通りに取りに来た。私は足を引いて、気付かれぬ
うちに小僧のバックを取った。奴は教科書にあることを全て試した~シットアウト、スイッチ、エスケープ~が、私は
奴を釘付けにしたまま離さなかった。奴は5分でゼイゼイ言い出し、エネルギーを使い果たしてブローアップしたのが
分かったので、私は彼を解放してやった。「ナイス・ワークアウトだ、キッド」私は握手し、微笑みながら、口先だけの
調子で言った。

160:お前名無しだろ
08/08/06 11:36:21 G2a5kUAA0
ジムの中の全員、100人以上が我々を見ており、おしゃべり野郎はメンツが丸つぶれになったと知った。彼はもう一度、と言い、私は
同意した。今度は私がダブルレッグ・テイクダウンを取ることから始めたが、その動きは殆どスローモーションで、彼にフロント・
ヘッドロック~チャンスリーとも呼ばれるが~を掛ける時間を与えるためだった。彼は食いついたので、私は膝を落とし、引いて
シットアウトし、手首を掴んでハンマーロックに取ったが、このムーブは私が反復練習してきたものだった。私は彼を放してやり、
背中を軽く叩いて立たせてやった。

161:お前名無しだろ
08/08/06 17:36:45 G2a5kUAA0
いまや彼は完全に怒り狂い、やっきになっていたが、これこそ私が待ち望んでいたもので、私にはとどめの一撃の用意が
できていた。彼は更にもう一度、と望んだので私は応じた。私は彼に頭を差し出した~エド・ルイスの古いムーブである
サイド・ヘッドロックを掛けさせるためだ。サイド・ヘッドロックは愚かなムーブで、初心者だけが取る動きである。
果たして小僧はそうしてきた。私は古典的だが頼りになるムーブ、グレコローマン・バックドロップをモロに食らわせて
やった。ワークアウトの終了だった。コンクリート床に薄く敷いたマット上でレスリングをしていたから、彼は失神KO
となった。経験豊かなプロフェッショナルなら肩で受身を取るのであるが、こいつはムーブを知らないアマチュアだったから、
私の頭を取った瞬間、意識をなくしたのだった。

162:お前名無しだろ
08/08/06 17:47:25 G2a5kUAA0
私には本を読むように小僧と観衆の心が読めた。彼らは考えていた~ジム界隈ではよく知られたコンディションの良い
235ポンドのアマチュアレスラーがここにいる。そして彼はこの年老いた50歳に男をさばくことができない。ゆえに、
このプロフェッショナル・レスラー達(私とダラ)はガチに強いのだろう、と。私は小僧の背中を叩いて、いいレスラー
だと褒めてやった。あの技は、と私は小僧に説明した。グレコローマン・バックドロップという技で、これをダラ・シンに
食わせてやろうと思っているんだ、たぶんこれでダラ・シンを打ち負かせるだろう、と。

163:お前名無しだろ
08/08/06 17:53:03 G2a5kUAA0
数日後、私とダラは再び試合を行い、私はバックドロップを使うことを思い出した。ダラは、勿論小僧とは違っていた。
叩きつけられたがカムバックして私を倒しに来た。小僧のダラ・シンに対するイメージがどれほど高まったか、想像できる
だろう。小僧は同じムーブを食らって失神KOしたのだから。これがあのワークアウトのポイントだった~つまり小僧の、私や、
ダラや、そしてプロフェッショナル・レスリングに対する態度を改めさせることだったのだ。小僧が、尋ねるもの皆に
この事を語ったのは私が保障してもいい。

164:お前名無しだろ
08/08/08 17:06:23 2dt+Tlrp0
グレコローマン・バックドロップは、他のツアーの試合でも傑出したムーブであった。私は1晩で2人の男と試合をすることに
なっていた。これは、私がダラ・シンとまだ再戦する価値のある人間だと証明するための、策略的な試合であった。最初の相手は
タイガー・ジョギンダー・シンという、20世紀始め、インドで最も偉大なレスラーと伝説的な評判を取っていた男である。
全盛期には偉大なアスリートで~エド・ルイスが尊敬を持って彼のことを話していた事を思い出す。ルイスは彼と戦ったことが
あttのである~あったが、何年もの間に、彼は麻薬中毒者になってしまっていた。

165:お前名無しだろ
08/08/08 17:13:23 2dt+Tlrp0
見られたものではなかった。麻薬のせいで彼の動きはひどく鈍く、まるで水中を泳いでいるように見え、結果的にひどい
怪我を負う事になった。数分レスリングをし、彼が私の頭をヘッドロックに捕らえたので、私は応じてロープへ飛ばした。
しかし彼はバランスを崩して、ロープを越えてコンクリートの床に頭から突っ込んだ。私は彼がコントロールを失い、音を
立てて頭から着地したのを見て、首か頭蓋骨が折れたのだろうと思った。私は彼の足首を掴んで何とかリングへ引き戻した。
彼が自らを傷つける前に早く終わらせるべきだと考え、グレコローマン・バックドロップを見舞ってピンした。

166:猪木様最強
08/08/08 17:14:58 CDS5Ik8b0
なにこのオナニースレ。ウザイ長文、誰も読まないっつーの。

167:お前名無しだろ
08/08/08 17:18:09 2dt+Tlrp0
薬物常用のためにジョギンダーは長く持たず、我々の試合は大層早く終わった。アナウンサーが補欠選手と試合するかどうか
尋ねてきたので、私は同意した。ドレッシングルームから、確実に7フィートあり、荒っぽい感じの痩せた男が出てきた。彼の
目には妙な光が浮かんでいた。何か仕掛けてくるつもりだと私は思い、用心しながら近づいた。しかし、一旦ロックアップして
みると、レスリングは何も知らないことが分かった。この大きな間抜けは、全くひどいものだった。

168:お前名無しだろ
08/08/08 17:24:36 2dt+Tlrp0
しれで私はリラックスしたわけだが、これが間違いだった。何かさせてやろうと思い、男にヘッドロックを取らせた。彼は
その通りして、私をコーナーへ引きずっていった。リング周囲のロープは何のカバーもない剥き出しで、危険になりうる~
ひどい火傷や切り傷の原因になるし、容易に感染を起こす~そしてこの馬鹿な男は3~4フィートにわたって私の顔をロープに
こすり付けた。皮膚が剥がれて、私の顔は血まみれになった。

169:お前名無しだろ
08/08/08 17:27:37 2dt+Tlrp0
私はロケットのように怒りを爆発させた。間抜けを捕らえるや否や、今まで誰にも食わせたことのないようなグレコローマン・
バックドロップで、勢いを加えて叩きつけてやった。男は病院直行となった。私も顔のカットの治療のため病院へ行った。
醜いかさぶたと傷跡は、数ヶ月残った。

170:お前名無しだろ
08/08/08 17:31:38 2dt+Tlrp0
我々はダラと私のリマッチの宣伝をしようと努めただけであり、確かにそれをやった。短い順番で伝説のタイガー・
ジョギンダー・シンを倒し、インドの巨人を病院送りにした。全ては30分以内で終了した。通常料金で、他の方法
より宣伝効果を上げることができた。

171:お前名無しだろ
08/08/08 17:40:36 2dt+Tlrp0
このエピソードは、別の面でも役に立った。インドのプロモーターは非常に保守的で、どんな宣伝戦略にも保守的だった。
彼らにとって宣伝とは文字通りマッチメイクをすることであり、サッカースタジアムを借りることであり、レスラーを
送り込むことであった。私は幾度か彼らを説得して、試合に何かエキサイトメントを導入するよう勧めたのであるが、
彼らはトライすることを恐れた。私のジョギンダー・シンと巨人との試合がある種の宣伝効果を生んだのを見て、彼らは
少しリラックスしたようだった。

172:お前名無しだろ
08/08/08 20:18:28 e7lLXOcU0
>>166
読んでるぞ

173:お前名無しだろ
08/08/09 09:02:30 0kfT3tSY0
のちのツアーで、結果的には私は少しばかりアメリカン・スタイルのエキサイトメントを導入することができた。ダラは
私に連絡をよこし、ビジネスが深刻なスランプにあるので、私の助力を求めてきたから、私は出場することに同意した。
はたして、ダラとの最初の試合ではハウスは25%の入りで、初期のツアーのことを考えると確かに悪い兆候だった。私は
ダラに、いつも2人で試合をしてきたのだから、次は弟のランダワールと私の試合を組んではどうかと提案した。ダラは
慎重だったが、この時点では何でも試してみる価値があると同意した。

174:お前名無しだろ
08/08/09 09:14:02 0kfT3tSY0
試合は英国と同じ10分のラウンド制で行われ、ランダワールが最初のフォールを取った。次は私がグレコローマン・
バックドロップでフォールを取った。彼は気絶し、ゴングに応じる事ができず、オフィシャルは試合をサスペンドと
した。私は、ランダワールが試合続行不可能になったのだから、私を勝者と宣言するよう求めたが、オフィシャルは
拒絶し、ランダワールがレスリングができるまで回復するのを待って再戦すると言った。これはうまく行った。
新聞社へ行って不正があったと叫び、主張する時間ができたのだから。

175:お前名無しだろ
08/08/09 09:22:17 0kfT3tSY0
ランダワールは殆ど負けたことがなかったから、これはインドではビッグ・ストーリーだった。私はメジャーの新聞社
全てを訪れて、国民的ヒーローを庇っていることを非難し、インタビューではランダワールガグレコローマン・バック
ドロップに耐えられなかった事を自慢した。私は「怒れるアメリカ人」の如く振る舞い、インド人を侮辱し、アメリカの
援助を浪費していると非難した。私は単に「攻撃的で傲慢で役立たずなアメリカ人」を演じただけで、これはステーツでは
恐ろしく時代遅れのギミックだったが、インド人は見た事もなかったから、結果的には、残り試合のために大変な報道が
なされ宣伝になったのである。ダラには信じられなかった~彼は長年自分自身のために大量の宣伝を打ってきたのだ~彼は
言った。試合のカードの宣伝をしてもらうなんて不可能に近い、と。

176:お前名無しだろ
08/08/09 09:28:11 0kfT3tSY0
実は非常に簡単なことだった。エド・ルイスが昔やったように、私はニュースメディアを攻撃したのである。放送局で
あろうが新聞であろうが雑誌であろうが、リポーターは皆、世界で一番敏感な職業で、彼らに暴行を加えれば、書きたてられる
事は確実に保障つきだった。だから私はそれをやった。

177:お前名無しだろ
08/08/09 09:36:08 0kfT3tSY0
我々は非常に親しい友人となり、これが最も大きな報酬だった。1970年代半ばには2人とも現役レスラーとしては
フェイズ・アウトしつつあったが、強いビジネス関係を確立していた。私は他にもアメリカのレスラーを海外に
ブッキングすることもしていて、ダラの為にボーイズを駆り集めた。ダラはブローカーとしてインドのプロモーター
にサービスを売り、私にそのパーセンテージを払った。

178:お前名無しだろ
08/08/09 09:43:46 0kfT3tSY0
私にとってインドは、不幸な結婚からの逃げ道でもあったが、この結婚は30年後の1975年に終わりを迎えた。ジム・ロンドスは
我々若いレスラーに、現役のレスラーは決して結婚などするものじゃない、とよく言っていたものだが、私も彼の言葉は絶対的に
正しいと信ずるに到った。旅と、ロードでの娯楽が多くのレスラーの結婚生活をぶち壊してきた。私もしかり、レスラーは年間
200日も300日もロードに出ているのだからイージーなことだ。子供がいれば尚更で、私には3人の息子ジェフ、ボブ、パットが
いたが、ロードに出てばかりで、彼らの幼年時代を一緒にいてやれなかった。

179:お前名無しだろ
08/08/09 09:54:18 0kfT3tSY0
結婚生活の破綻を防ごうと、妻をロードに同道するレスラーもいたが、常にひどいトラブルとなった。他のボーイズの
揉め事の種となったからだ。妻はサーキット中のレスラーの所業~酔っ払ったり、あちこちのと女と遊んだり~を見て、
配偶者に警告してしまうから、ボーイズが仕事を終えて家に帰ると地獄が待っている、というわけだ。夫はといえばこれまた
色んな面で苦しむ事になる。ドレッシング・ルームでサーキットでの出来事について怒り狂った妻に叱責され、先々妻は
夫を1人でロードに出すのを渋るようになるのである。

180:お前名無しだろ
08/08/09 10:00:03 0kfT3tSY0
我々の離婚はざっとこんなわけだが、なぜこの事に触れたかと言うと理由はただ1つ~もう60歳にもなる男が何故レスリングを
続けているのか説明するためだ。私は生計を立てねばならず、だから、1番よく知っているものに復帰したのである。
ナッシュビルにベースを置くニック・グラスというプロモーターは南部の大きなテリトリーを運営しており、私は彼と契約を
結ぶ事に同意した。

181:お前名無しだろ
08/08/09 10:03:59 0kfT3tSY0
グラスはナイスな人間ではなかったし、程度の低いプロモーターであった。文盲や、カーニバル・レスラーや、レスラー志望の
子供や、さらにはカナダやメキシコからの不法入国者すら使った。彼らはグラスの元しか働く場所がなかったから、だから
グラスは彼らをコントロールできたのだ。100ドル稼いだはずが10ドルしか支払われず、不平を恐れて金を持って逃げていた。
オフィスの助手を手ひどく扱い、ののしり、こき使った。

182:お前名無しだろ
08/08/09 10:08:28 0kfT3tSY0
グラスはファンに対しても配慮の欠けた人間だった。得意のブッキングのやり方は、同じ夜、数ヶ所の街にスターをブッキングし、
どの町で一番チケットが売れるか分かるまで待つのである。売り上げ一番の町にスターが出場し、他の町には土壇場で補欠選手が
出るのだった。私はグラスがこんなやり方でどうやって業界に留まっていられるのか知らなかったが、しかし彼は何年もそうして
来たのだった。

183:お前名無しだろ
08/08/09 10:19:40 wYjkCBGb0
日本に関係ある記述は無いの?w

184:お前名無しだろ
08/08/09 10:41:54 HXr3IsvlO
お疲れ様です!
貴重な翻訳本当にありがとうございます。

心ないやじはスルーしましょう
日本で「プロフェッショナル」役を演じ続けたけど真の実力者からは
「パフォーマー」としか見なされなかった役者を恥ずかしげもなく
最強と崇める程度の子ですから

185:お前名無しだろ
08/08/09 10:43:45 0kfT3tSY0
>>183 前スレをご覧下さい。

グラスと私はお互い、個人的には好きではなかった~我々は若い頃からの知り合いで、その頃私は短いツアーに出ており
彼はアラバマやバーミンガムのプロモーションの使い走りであった。だがグラスは私がいてハッピーだったろう。なぜなら
彼はポリスマンが欲しかったからだ。グラスの元には少しばかりレスリングのできる男が数人いたが、ときには彼らは
当り散らすこともあり、それがあまりひどければ、グラスはただ単に私とブッキングするだけだった。

186:お前名無しだろ
08/08/09 10:57:13 0kfT3tSY0
ご想像通り、殆どのボーイズはグラスを心底憎んでいたから、私はもし誰かが癇癪を起こしたら何が起こるかいつも心配だった。
グラスは他所での試合に行くのに自家用飛行機を使っており、私に同乗を誘うのが常であったが、私はいつもそれを断っていた。
マジな話、誰かがいつか爆弾を仕掛けるに違いないと心配していたからだ。一度ナッシュビルで、他のプロモーターとグラスの
ボーイズ3人が大酒を呑んで、グラスの金払いの悪さについて激論を交わし、グラスを窓の外へ放り出してしまおうと決めた~
ダウンタウン・エリアの高いオフィス・タワーでだ!~私が説得に入ったとき、彼らは実際にグラスの足首を掴んで放り出す
寸前だった。あなたがグラスの馬鹿の命を救ってやっても何にもならない。翌日にはコロッと変わって搾取を始めるからだ。
グラスはしまいには私にもそうし始めた。

187:お前名無しだろ
08/08/09 11:08:59 0kfT3tSY0
チャタヌガは彼のベストタウンの1つだった。私はある日ここにブッキングされたが、ナッシュビルのオフィスは前の週の支払いを止めていた。
私はグラスと、ゲートから受け取るパーセンテージを最低限100ドルと合意していたのに、しかしその日の封筒の中身は50ドルだった。私は
チャタヌガに着き、私はグラスを見つけ苦情を言った。グラスは、支払い係はブッカーのトム・レネストという男だから、そっちで話してくれと
言うので、私はレネストのところへ行ったのだが、彼は何も知らないと言った。グラスが言った事を伝えると、レネストは答えた~職を
失いたくなかったからデリケートな言い回しであったが~グラスは嘘をついていると。

188:お前名無しだろ
08/08/09 11:34:44 0kfT3tSY0
翌朝ナッシュビルに戻り、前夜の支払いを受けるためにオフィスの近くで降りたが、グラスはまだ金の用意がないと言った。
私は、彼がまた払わないと困るので待とうと言った。1時間ほどしてグラスは現れ、私の手の中へ100ドルを突っ込んだ。全く
不足な金額だった。チャタヌガのハウスの入りは良かったのだが、グラスは、見た目ほどは入っていなかったんだだの、出費が
かさんだだのと言い張った。グラスは知らなかったが、オーでトリアムのマネージャーが私の古い友人で、彼がグラスが実際には
どれだけ受け取ったか教えてくれた。わたしには300ドル繰るはずだったことが分かった。

189:お前名無しだろ
08/08/09 11:47:35 wYjkCBGb0
>>185
テンプレ化もされてないのに前スレ見ろかよw
書いてる内容うんぬんじゃなく本当にオナニー野郎か・・残念。

190:お前名無しだろ
08/08/09 15:22:10 2kpW9HJA0
夏だなぁ

191:お前名無しだろ
08/08/09 15:36:38 7OiVZzsaO
>>189
前スレもこのスレも、お前は見なくていいよw 消えろカス

192:お前名無しだろ
08/08/09 16:08:19 M2o02bqG0
テーズ流に言うなら「どうしようもない奴」だなwww

193:お前名無しだろ
08/08/09 17:15:08 0kfT3tSY0
>>189 49をご参照あれ。

グラスはその頃、メンフィスのグループ~バディ・フラー、ジェリー・ジャレット、レスター・ウェルシュら~とのプロモーション戦争に
巻き込まれており、グラスのテリトリー何箇所かで対抗勢力となっていた。早い時期に彼らは私に、自分たちのプロモーションで試合を
しないかと接触してきていたので、実際私は何回か彼らとミーティングを持っていて、彼らのオファーの内容は知っていた。けれども
グラスがけちなペイオフを提示するまでは、そのことについて真剣に考えた事はなかった。私はマジでグラスの鼻っ面をぶん殴って
やりたかったが、仕返しの一番いい方法は、財布の中で殴ってやることだと分かっていた。だから、メンフィスのグループがいずれまた
連絡をよこすだろうと思いながら、数週間はクールに振舞っていた。

194:お前名無しだろ
08/08/09 17:19:44 0kfT3tSY0
それをきっかけのように、彼らは電話をよこした。ミーティングで彼らは、その時私が巻いていた南部ヘビー級ベルトと一緒に
グラスの元を去り、彼らのために試合をするなら、5000ドルをキャッシュで出そうとオファーしてきた。彼らのためにレスリング
することに興味はなかった~彼らは私にとって何ら特別な存在ではなかったから~が、私はグラスをこらしめてやりたかったから、
取引をしたのである。小切手が銀行でクリアーされたので、私は彼らに連絡を取り、用意はできたと告げた。

195:お前名無しだろ
08/08/09 17:22:33 0kfT3tSY0
チャタヌガにおけるメンフィス・グループの最初のブッキングは、英国の優秀なレスラー、トニー・チャールスとの一戦で、
南部ヘビー級選手権試合と宣伝が打たれた。グラスは私が提携先を変えたのを知らず、チャタヌガからの連絡で事態を知り、
あわてて電話をよこし、何が起きたのか知りたがった。

196:お前名無しだろ
08/08/09 17:25:01 0kfT3tSY0
私は彼にリラックスするよう言い、これは明らかに敵の策略だと言った。事実、同夜チャタヌガで再びグラスの試合に
出場するようブッキングされていたのだから、敵対グループが、ファンを惑わすためにこんな汚いトリックを使うのは
もっともらしく思われた。

197:お前名無しだろ
08/08/09 17:27:59 0kfT3tSY0
その夜、私はメンフィス・グループのために試合をし、グラスは興行なしの置き去りにしてやった。試合の後私は車でナッシュビルへ
戻り、午前2時ごろ家に着いたが、グラスが何が起こったのか半狂乱で私に電話してきていたことが分かった。私はしばらくグラスを
イライラさせておくことにした。

198:お前名無しだろ
08/08/09 17:30:41 0kfT3tSY0
最後に、午前4時ごろ私は受話器を取って、グラスに電話を掛けた。最初の1鳴りで彼は出た。「一体どうなってるんだ?」
彼は叫んだ。「50ドルの支払いを覚えてるか?」私は言った。「チャタヌガの支払い100ドルは?そう、ニック、これが
本当の清算だよ」私は一方的に電話を切った。

199:お前名無しだろ
08/08/09 17:39:37 0kfT3tSY0
15分後ほどして私の電話が鳴った。グラスとレネストだった。私がオポジションに行ってしまった事を知って、呼び戻そうとしているのだった。
私はしばらく聞いていたが、気持ちは変わらなかった。最後に、私の決心が固いと分かると、グラスは南部ヘビー級ベルトを返して貰いたい
と言った。「そりゃいい」私は言った。「好きなときに来て、取って行けよ」「いいだろう」彼は言った。「RIGHT OVERだ」
「ちょっと待った、ニック」私は言った。「分かってないようだな。ここへ来て、リングの中で私から取っていけと言ってるんだ。誰か
レスリングできる奴を探すんだな」長い沈黙があった。最後にレネストが大きな声で言った。「ルー、我々にはそんなことはできない事は、
お前さんだって知ってるじゃないか。お前さんに匹敵するような奴はいやしない」「ああ、分かってる」私は言った。
「だから言ったのさ」

200:お前名無しだろ
08/08/09 17:44:10 0kfT3tSY0
私はメンフィス・グループとロードに出て、元オリンピック選手で優秀なプロフェッショナルであるボブ・ループと言う
名のレスラーにベルトを譲った。我々はどこでもアリーナを満員にした。ことにチャタヌガではそうであった。メンフィス
・グループはテリトリー全体でグラスを殺しにかかっていた~グラスのベルトで。

201:お前名無しだろ
08/08/09 17:50:32 0kfT3tSY0
その年遅く、クリスマスの頃、サウル・ワインゲロフと言う名の元レスラーから電話があり、ベルトをグラスに返すよう説得を
始めた。この時私はベルトをループから奪い返していた。「ルー、我々はよき友人だ。お願いだからベルトをニックに返しちゃ
くれないか?そうすりゃニックに本当のクリスマスが来る」ワインゲロフはただグラスのケツにキスしているだけで、本当は
自分のために何か手に入れようとしていると私は思い、私は協力するふりをした。「サウル、お前さんの為にそうしよう」
私は言った。「ベルトを返してやるとニックに伝えてくれ。どのみち真のチャンピオンシップのチープなイミテーションに
過ぎない。もういらないよ」

202:お前名無しだろ
08/08/09 17:54:14 0kfT3tSY0
さて、ワインゲロフは勢いづいたが、それは一瞬だけだった。私は彼の話をさえぎり、値段は1000ドルだと告げたからだ。
「5000ドルの値をつけてるんだが、いいだろう、サウル」私は言った。「クリスマスだからな。1000ドルにまけておこう」
ワインゲロフは殆ど気絶しそうだった。私が言ったことを伝えたら、グラスは私を銃で撃つに違いない、とワインゲロフは
言った。

203:お前名無しだろ
08/08/09 18:00:01 0kfT3tSY0
私は楽しんでいた。グラスはボーイズを利用したり虐待するのを楽しがるような男であり、これで仕返しになるからだった。
グラスという男は、プロフェッショナル・レスリングをこんにちのような有り様におとしめた「ラスリン」という言葉の
イメージを確立させてしまったプロモーターの1人であり、感ずるところは何もない男だった。
グラスはもう既に亡くなっているのだから、こんな事を離しても何にもならない。しかしだ、生きているときにサノバビッチ
だった野郎は死んでもサノバビッチである、と言う事を私は昔学んで、知っているのだ。違うだろうか?

204:お前名無しだろ
08/08/09 18:58:19 Km7/VfC90
いつもありがとうございます。

205:お前名無しだろ
08/08/11 02:07:58 SFEKm4mJ0
これって流が訳した本の丸写しか?
訴えられるぞ

206:お前名無しだろ
08/08/11 02:33:02 ORdupBzt0
過去ログ読みなさいな。経緯も書かれてるから

207:お前名無しだろ
08/08/11 07:29:55 9PI0Nk7o0
付け加えなくてはならないが、ニック・グラスと組んだ事は私に大きな利益を生みもした。私は崩壊した結婚生活から逃げてナッシュビルへ
やってきて、もう2度と結婚はしないと誓ったのであったが、ここナッシュッビルでチャーリーと出会ったのだ。我が人生における本当の
愛だった。

208:お前名無しだろ
08/08/11 07:35:03 9PI0Nk7o0
チャーリーは、私をモーテルの中で拾ったと好んで言うが、これは殆ど事実である。彼女は経理事務所で働くかたわら
パートタイムでナッシュビル繁華街のモーテルで仕事をしており、このモーテルは私がいつも練習に使っていたYMCAから
1ブロックの距離にあった。YMCAで私がときどきハンドボールの相手をしていたのがこのモーテルのオーナーで、機会が
あればたまには泊まってくれよ、と勧められていた。それである日私がチェックインすると、カウンターの向こうに
魅力的でチャーミングな女性がいたのだ。

209:お前名無しだろ
08/08/11 07:42:49 9PI0Nk7o0
彼女は5年半の結婚生活に敗れていて、終身交際することについては私ほど熱心でも楽天的でもなかった。我々はいつもモーテルの
レストランでコーヒーを一緒にのみ、だんだん良い友人になっていった。ある夜、長いロードから帰ってチェックインした時、彼女が
もう働いていないと知って私はがっかりし、電話を掛けた。私の部屋でワインでも、と誘ったのだが彼女は辞退した。ならばと、
私は彼女の家へ私を招いてくれるよう話した。

210:お前名無しだろ
08/08/11 07:45:56 9PI0Nk7o0
暖かい友情に始まったものはシリアスな交際へと発展した。そこには30歳の年齢差があったが、そんなことは何の障壁にも
ならないことを我々は証明した。最後に我々は結婚を決めたが、それは単に他の選択がなかったゆえだ~我々にはこれ以外の
人生など考えられなかったのである。


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