三島由紀夫と楯の会at WAR
三島由紀夫と楯の会 - 暇つぶし2ch115:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/13 14:53:20 Y/JFaF51
国体は日本民族日本文化のアイデンティティーを意味し、政権交替に左右されない恒久性をその本質とする。
政体は、この国体維持といふ国家目的民族目的に最適の手段として、国民によつて選ばれるが、政体自体は
国家目的追求の手段であつて、それ自体、自己目的的なものではない。
民主主義とは、継受された外国の政治制度であり、あくまで政体以上のものを意味しない。
これがわれわれの思考の基本的な立場である。
旧憲法は国体と法体系の間の相互の投影を完璧にしたが、現憲法は、これを明らかにしてゐないことは
前述の通りである。
けだし、国体の語を広義に解釈すれば、現憲法は二種の国体、二つの忠誠対象を、分裂させて持つてをり、
且つ国民の忠誠対象をこの二種の国体へ分裂させるやうに仕組まれてゐるからである。

三島由紀夫「問題提起」より

116:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/13 14:54:36 Y/JFaF51
国体は本来、歴史・伝統・文化の時間的連続性に準拠し、国民の永い生活経験と文化経験の集積の上に
成立するものであるが、革命政権における国体とは、いふまでもなく、このやうなものではない。
革命政権における国体は、未来理想社会に対する一致した願望努力、国家超越の契機を内に秘めた世界革命の
理想主義をその本質とするであらう。
ところが、奇妙なことに現行憲法は、この相反する二種の国体概念を、(おそらく国論分裂による日本弱体化
といふ政治的企図を含みつつ)、並記してゐるのである。
これが憲法第一章と第二章との、戦後の思想的対立の根本要因をなす異常なコントラストである。
…第九条についてはあとで詳述するが、国際連合憲章の理想主義と、左派の戦術的非戦論とが癒着した
この九条において、正に同一の条項が、一方では非武装平和主義の仮面の下に浸透した左翼革命勢力の抵抗の
基盤をなしたのであつた。

三島由紀夫「問題提起」より

117:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/13 14:55:39 Y/JFaF51
(中略)国体と政体の別を明らかにし、本と末の別を立て、国にとつて犯すべからざる恒久不変の本質と、
盛衰を常とする政体との癒着を剥離することこそ、国の最大の要請でなければならない。
そのためには、憲法上、第一章と第二章とが到底民族的自立の見地から融和すべからざるものであり、
この民族性の理念と似而非国際主義の理念との対立矛盾が、エモーショナルな国民の目前に、はつきり
露呈されることが何よりも緊要である。
このことは、グロテスクな誇張を敢てすれば、侵略戦争の宣戦布告をする天皇と、絶対非武装平和の
国際協調主義との、対立矛盾を明示せよ、といふのではない。むしろその反対である。
もし現憲法の部分的改正によつて、第九条だけが改正されるならば、日本は楽々と米軍事体制の好餌になり、
自立はさらに失はれ、日本の歴史・伝統・文化は、さらに危殆に瀕するであらう。

三島由紀夫「問題提起」より

118:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/13 15:00:03 Y/JFaF51
われわれは、第一章、第二章の対立矛盾に目を向け、この対立矛盾を解消することによつて、日本の国防上の
権利(第二章)を、民族目的(第一章)に限局させようと努め、その上で真の自立の平和主義を、はじめて
追求しうるのである。
従つて、第一章の国体明示の改正なしに、第二章のみの改正に手をつけることは、国家百年の大計を誤る
ものであり、第一章改正と第二章改正は、あくまで相互のバランスの上にあることを忘れてはならない。
さて、何故に第一章の「国体」は、国民の忠誠対象として衰退したか?
それはあくまで教育と政策の結果である。(中略)
「忠誠」だけは有難迷惑な贈物であり、これを拒絶する装置も隠密周到に作られた。
しかし忠誠を拒絶することは、自ら国体たることを否定する態度に他ならないから、やむなく大衆は無際限に
その忠誠をうけ入れてくれる第九条のはうを現時の国体と考へるにいたつたのも無理はない。
尤もこれらの皇室政策が、天皇御自身の御意向に添うたものである、と私は言はうとしてゐるのではない。
事勿れ主義の官僚群が作つたものであることは明らかである。

三島由紀夫「問題提起」より

119:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/13 15:01:49 Y/JFaF51
もしかりに、一定妥協して、不十分ながら第一章が日本の「国」とは何ぞやといふことを規定してゐるとしても、
第二章は明らかに、国家超克の人類的理想について述べてゐる。
第一章が「国のため」といふ理念を一応掲げてゐると仮定しても、第二章が掲げてゐるのは「人類のため」
といふ理念である。国民の側から云へば、国家意志の不明確である。
これらの茫獏たる規定から演繹される国家最高の理念とは、人命尊重のヒューマニズムに尽き、平時はそれで
よいが、ひとたび危機に際会すると、一九七〇年春のハイジャック事件のやうに、韓国、北鮮がそれぞれ明白に
国家意志を表明したのに、ひとり日本は、人命尊重のヒューマニズム以上のものを表明することができず、
しかもこのヒューマニズムには存分に偽善が塗り込められるといふ醜態をさらしたのであつた。

三島由紀夫「問題提起」より

120:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/02 14:43:23 Vlt9vDOv
―さて、逐条的に現憲法の批判に入ると、
第一条(天皇の地位・国民主権)天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、
この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
第二条(皇位の継承)皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、
これを継承する。
とあるが、第一条と第二条の間には明らかな論理的矛盾がある。
すなはち第一条には、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とあるが、第二条には、
「皇位は、世襲のものであつて」とあり、もし「地位」と「皇位」を同じものとすれば、
「主権の存する日本国民の総意に基く」筈のものが、「世襲される」といふのは可笑しい。
世襲は生物学的条件以外の条件なき継承であり、「国民の総意に基く」も「基かぬ」もないのである。

三島由紀夫「問題提起」より

121:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/02 14:44:29 Vlt9vDOv
又、もしかりに一歩ゆづつて、「主権の存する日本国民の総意」なるものを、一代限りでなく、各人累代世襲の
総意とみとめるときは、「世襲」の語との矛盾は大部分除かれるけれども、個人の自由意志を超越した
そのやうな意志に主権が存するならば、それはそもそも近代個人主義の上に成立つ民主主義と矛盾するであらう。
又、もし、「地位」と「皇位」を同じものとせず、「地位」は国民の総意に基づくが、「皇位」は世襲だと
するならば、「象徴としての地位」と「皇位」とを別の概念とせねばならぬ。
それならば、世襲の「皇位」についた新らしい天皇は、即位のたびに、主権者たる「国民の総意」の査察を受けて、
その都度、「象徴としての地位」を認められるか否か、再検討されなければならぬ。
しかもその再検討は、そもそも天皇制自体の再検討と等しいから、ここで新天皇が「象徴としての地位」を
否定されれば、必然的に第二条の「世襲」は無意味になる。
いはば天皇家は、お花の師匠や能役者の家と同格になる危険に、たえずさらされてゐることになる。

三島由紀夫「問題提起」より

122:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/02 14:45:24 Vlt9vDOv
私は非常識を承知しつつ、この矛盾の招来する論理的結果を描いてみせたのであるが、このやうな矛盾は明らかに、
第一条に於て、天皇といふ、超個人的、伝統的、歴史的存在の、時間的連続性(永遠)の保証者たる機能を、
「国民主権」といふ、個人的、非伝統的、非歴史的、空間的概念を以て裁いたといふ無理から生じたものである。
これは、「一君万民」といふごとき古い伝承観念を破壊して、むりやりに、西欧的民主主義理念と天皇制を
接着させ、移入の、はるか後世の制度によつて、根生の、昔からの制度を正当化しようとした、方法的誤謬から
生れたものである。
それは、キリスト教に基づいた西欧の自然法理念を以て、日本の伝来の自然法を裁いたものであり、
もつと端的に言へば、西欧の神を以て日本の神を裁き、まつろはせた条項であつた。

三島由紀夫「問題提起」より

123:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/02 14:46:05 Vlt9vDOv
われわれは、日本的自然法を以て日本の憲法を創造する権利を有する。
天皇制を単なる慣習法と見るか、そこに日本的自然法を見るかについては、議論の分れるところであらう。
英国のやうに慣習法の強い国が、自然法理念の圧力に抗して、憲法を不文のままに置き、慣習法の運用によつて、
同等の法的効果と法的救済を実現してゆくが如き手続は、日本では望みがたいが、すべてをフランス革命の
理念とピューリタニズムの使命感で割り切つて、巨大な抽象的な国家体制を作り上げたアメリカの法秩序が、
日本の風土にもつとも不適合であることは言ふ俟たない。
現代はふしぎな時代で、信教の自由が先進諸国の共通の表看板になりながら、十八世紀以来の西欧人文主義の
諸理念は、各国の基本法にのしかかり、これを制圧して、これに対する自由を許してゐないのである。

三島由紀夫「問題提起」より

124:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/02 14:47:02 Vlt9vDOv
われわれがもしあらゆる宗教を信ずることに自由であるなら、どうして近代的法理念のコンフォーミティーから
だけは自由でありえない、といふことがあらうか?
又逆に、もしわれわれが近代的法理念のコンフォーミティーからは自由でありえないとするならば、習俗、伝習、
文化、歴史、宗教などの民族的固有性から、それほど自由でありうるのだらうか?
それは又、明治憲法の発祥に戻つて、東洋と西洋との対立融合の最大の難問に、ふたたび真剣にぶつかることであるが、
敗戦の衝撃は、一国の基本法を定めるのに、この最大の難問をやすやすと乗り超えさせ、しらぬ間に、日本を、
そのもつとも本質的なアイデンティティーを喪はせる方向へ、追ひやつて来たのではなかつたか?
天皇の問題は、かくて憲法改正のもつとも重要な論点であつて、何人もこれを看過して、改憲を語ることはできない。

三島由紀夫「問題提起」より

125:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/12 13:48:14 WZ61HY/b
これについて幾多の問題点が考へられる。天皇のいはゆる「人間宣言」は至当であつたか?
新憲法によれば、「儀式を行ふこと」(第七条第十項)とニュートラルな表現で「国事行為」に辛うじて
のこされてゐるが、歴史・伝統・文化の連続性と、国の永遠性を祈念し保障する象徴行為である祭祀が、
なほ天皇のもつとも重要な仕事であり、存在理由であるのに、国事行為としての「儀式」は、神道の祭祀を
意味せぬものと解され、祭祀は天皇家の個人的行事になり、国と切り離されてゐる。
しかし天皇が「神聖」と完全に手を切つた世俗的君主であるならば、いかにして「象徴」となりえよう。
「象徴」が現時点における日本国民および日本国のみにかかはり、日本の時間的連続性と関はりがないならば、
大統領で十分であつて、大統領とは世襲の一点においてことなり、世俗的君主とは祭祀の一点においてことなる
天皇は、正にその時間的連続性の象徴、祖先崇拝の象徴たることにおいて、「象徴」たる特色を担つてゐるのである。

三島由紀夫「問題提起」より

126:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/12 13:49:54 WZ61HY/b
天皇が「神聖」と最終的につながつてゐることは、同時に、その政治的無答責性において、現実所与の変転する
政治的責任を免かれてゐればこそ、保障されるのである。
これを逆に言へば、天皇の政治的無答責は、それ自体がすでに「神聖」を内包してゐると考へなければ
論理的でない。なぜなら、人間であることのもつとも明確な責任体系こそ、政治的責任の体系だからである。
そのやうな天皇が、一般人同様の名誉毀損の法的保護しか受けられないのは、一種の論理的詐術であつて、
「栄典授与」(第七条第七項)の源泉に対する国自体の自己冒涜である。

三島由紀夫「問題提起」より

127:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/12 13:51:07 WZ61HY/b
「神聖不可侵」の規定の復活は、おのづから第二十条「信仰の自由」の規定から、神道の除外例を要求するだらう。
キリスト教文化をしか知らぬ西欧人は、この唯一神教の宗教的非寛容の先入主を以てしか、他の宗教を
見ることができず、英国国教のイングランド教会の例を以て日本の国家神道を類推し、のみならずあらゆる
侵略主義の宗教的根拠を国家神道に妄想し、神道の非宗教的な特色性、その習俗純化の機能等を無視し、
はなはだ非宗教的な神道を中心にした日本のシンクレティスム(諸神混淆)を理解しなかつた。
敗戦国の宗教問題にまで、無智な大斧を揮つて、その文化的伝統の根本を絶たうとした占領軍の政治的意図は、
今や明らかであるのに、日本人はこの重要な魂の問題を放置して来たのである。
天皇は、自らの神聖を恢復すべき義務を、国民に対して負ふ、といふのが私の考へである。

三島由紀夫「問題提起」より

128:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/12 13:52:34 WZ61HY/b
一方、旧憲法の天皇大権は大幅に制約されて然るべく、天皇の政治上の無答責は憲法上に明記されねばならないが、
第二章への遠慮によつて、天皇の栄典授与の国事行為ですら、文官に対してのみ公然となされてゐる不均衡
不自然は、九条の変更によつて、直ちに改められるであらう。
但し、事軍事に関しては、旧憲法の「統帥権独立」規定の惨憺たる結果を見るにつけ、決して天皇にその
最終指揮権を帰属せしむべきではない。

三島由紀夫「問題提起」より

129:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/12 13:54:26 WZ61HY/b
…第九条第二項の「前提の目的を達するため」を、「前提の目的を達するために限り」と強ひて限定的に解し、
国際紛争を解決する手段としての戦争を永久に放棄するために限り、戦力を保持しないが、それ以外の自衛の
目的のためには保持しうるとして、自衛隊の法的根拠とするすこぶる苦しい法解釈である。
これが通常の日本文の語訳として奇怪きはまるものであることはいふまでもない。
ありていに言つて、第九条は敗戦国日本の戦勝国に対する詫証文であり、この詫証文の成立が、日本側の
自発的意志であるか米国側の強制によるかは、もはや大した問題ではない。
ただこの条文が、二重三重の念押しをからめた誓約の性質を帯びるものであり、国家としての存立を危ふくする
立場に自らを置くものであることは明らかである。
論理的に解すれば、第九条に於ては、自衛権も明白に放棄されてをり、いかなる形においての戦力の保有も
ゆるされず、自衛の戦ひにも交戦権を有しないのである。
全く物理的に日本は丸腰でなければならぬのである。

三島由紀夫「問題提起」より

130:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/12 14:15:50 yDrLEmM7
ああぁ、三島さんは
すばらすぃ~よぉ
しんじゃったけどさぁ~

131:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/13 13:05:54 NkA5TWrS
(中略)
第九条のそのままの字句通りの遵奉は、「国家として死ぬ」以外にはない。しかし死ぬわけには行かないから、
しやにむに、緊急避難の理論によつて正当化を企て、御用学者を動員して、牽強附会の説を立てたのである。
自衛隊は明らかに違憲である。しかもその創設は、新憲法を与へたアメリカ自身の、その後の国際政治状況の
変化による要請に基づくものである。(中略)
護憲のナショナリスティックな正当化は、あくまで第九条の固執により、片やアメリカのアジア軍事戦略体制に
乗りすぎないやうに身をつつしみ、片や諸外国の猜疑と非難を外らさうといふ、消極弥縫策にすぎず、
国内的には、片や「何もかもアメリカの言ひなりにはならぬぞ」といふナショナリスティックな抵抗を装ひ、
片や「平和愛好」の国民の偸安におもねり、大衆社会状況に迎合することなのである。
しかもアメリカの絶えざる要請にしぶしぶ押されて、自衛隊をただ「量的に」拡大し、兵器体系を改良し、
もつとも厄介な核兵器問題への逢着を無限に延させるために、平和憲法下の安全保障の路線を、無目的無理想に
進んでゆくことである。

三島由紀夫「問題提起」より

132:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/13 13:06:57 NkA5TWrS
…核と自主防衛、国軍の設立と兵役義務、その他の政策上の各種の難問題は、九条の裏面に錯綜してゐる。
しかしここでは、私は徴兵制度復活には反対であることだけを言明しておかう。
(中略)
私は九条の改憲を決して独立にそれ自体として考へてはならぬ、第一章「天皇」の問題と、第二十条
「信教の自由」に関する神道の問題と関連させて考へなくては、折角「憲法改正」を推進しても、却つて
アメリカの思ふ壷におちいり、日本が独立国家として、日本の本然の姿を開顕する結果にならぬ、と再々力説した。
たとへ憲法九条を改正して、安保条約を双務条約に書き変へても、それで日本が独立国としての体面を
回復したことにはならぬ。韓国その他アジア反共国家と同列に並んだだけの結果に終ることは明らかであり、
これらの国家は、アメリカと軍事的双務条約を締結してゐるのである。

三島由紀夫「問題提起」より

133:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/13 13:07:34 NkA5TWrS
第九条の改廃については、改憲論者にもいくつかの意見がある。
「第九条第一項の字句は、そもそも不戦条約以来の理想条項であり、これを残しても自衛のための戦力の保持は
十分可能である。しかし第二項は、明らかに、自衛隊の放棄を意味するから削除すべきである」
といふ意見に、私はやや賛成であるが、そのためには、第九条第一項の規定は、世界各国の憲法に必要条項として
挿入されるべきであり、日本国憲法のみが、国際社会への誓約を、国家自身の基本法に包含してゐるといふのは、
不公平不調和を免かれぬ。
その結果、わが憲法は、国際社会への対他的ジェスチュアを本質とし、国の歴史・伝統・文化の自主性の表明を
二次的副次的なものとするといふ、敗戦憲法の特質を永久に免かれぬことにならう。
むしろ第九条全部を削除するに如くはない。

三島由紀夫「問題提起」より

134:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/13 13:08:32 NkA5TWrS
その代りに、日本国軍の創立を謳ひ、健軍の本義を憲法に明記して、次の如く規定するべきである。
「日本国軍隊は、天皇を中心とするわが国体、その歴史、伝統、文化を護持することを本義とし、国際社会の
信倚と日本国民の信頼の上に健軍される」
防衛は国の基本的な最重要問題であり、これを抜きにして国家を語ることはできぬ。
物理的に言つても、一定の領土内に一定の国民を包括する現実の態様を抜きにして、国家といふことを語ることが
できないならば、その一定空間の物理的保障としては軍事力しかなく、よしんば、空間的国家の保障として、
外国の軍事力(核兵器その他)を借りるとしても、決して外国の軍事力は、他国の時間的国家の態様を
守るものではないことは、赤化したカンボジア摂政政治をくつがへして、共和制を目ざす軍事政権を打ち樹てる
といふことも敢てするのを見ても自明である。

三島由紀夫「問題提起」より

135:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/13 13:10:19 NkA5TWrS
自国の正しい健軍の本義を持つ軍隊のみが、空間的時間的に国家を保持し、これを主体的に防衛しうるのである。
現自衛隊が、第九条の制約の下に、このやうな軍隊に成育しえないことには、日本のもつとも危険な状況が
孕まれてゐることが銘記されねばならない。
憲法改正は喫緊の問題であり、決して将来の僥倖を待つて解決をはかるべき問題ではない。
なぜならそれまでは、自衛隊は、「国を守る」といふことの本義に決して到達せず、この混迷を残したまま、
徒らに物理的軍事力のみを増強して、つひにもつとも大切なその魂を失ふことになりかねないからである。
自衛隊は、警察予備隊から発足して、未だその警察的側面を色濃く残してをり、警察との次元の差を、装備の
物理的な次元の差にしか見出すことができない。
国家の矜りを持つことなくして、いかにして軍隊が軍隊たりえようか。
この悲しむべき混迷を残したものが、すべて第九条、特にその第二項にあることは明らかであるから、
われわれはここに論議の凡てを集中しなければならない。

三島由紀夫「問題提起」より


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