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元関脇「栃乃和歌」の 綛田清隆 氏は、和歌山県海南市(旧 海草郡下津町)出身の名関脇。
当人は野球少年だったそうで、和歌山の「箕島高校」に進学したが、野球部志望者が多かった折、
東尾 修、後には 吉井理人 を育てた、当時の野球部・尾藤 公 監督から、
「綛田は相撲をやれ」と言われたそうである。
実は、 綛田清隆 の名は、元横綱で、名理事長としても有名だった「栃錦(→春日野)清隆」に因んだものである。
綛田清隆 の祖母が、大の栃錦ファンだったらしく、孫の命名に「清隆」の名を強く推奨したらしいとのこと。
野球はあきらめたものの、箕島高校→明治大学 で 相撲に打ち込んだ後、
祖母の願望によるものか、当時 栃錦 の 春日野理事長 率いる 春日野部屋 に入門となった。
「栃乃和歌」のしこ名は、栃錦の親方が、自身のライバルだった、初代若乃花とも相談してつけたとのこと。
「栃乃和歌」は、三役に昇進しても、結構安定した成績を残したが、
後の横綱・武蔵丸(現 振分親方)に全く勝てなかったのが響き、関脇止まりで終わってしまった。
実は、栃錦の親方は、栃乃和歌 の 大関昇進時に、「栃錦清隆」を与える予定だったそうである。
栃錦 襲名には至らなかったものの、「年寄・春日野」を襲名し、栃錦の親方と同じ、
「春日野清隆」を名乗ることとなり、現在に至っている。
自身が関西の高校野球の古豪・箕島高校出身だけに、
やはり関西の高校野球の古豪・報徳学園高校出身の「李 太源」君 に、自分と同じ呼び方の四股名
「栃乃若」を与えた(「栃乃若」は長らく、本名の「李」で土俵に上がっていたが、
呼び出しや行司からクレームが相次いだらしい)。