09/03/11 23:10:01 0uUFXAKt
>>525
おい、君。まず名前が違うよ。
「相撲台工業」じゃなくて
「相模台工業」だよ。
確かに似てるけど相撲取りじゃないんだからさ。
その昔、相模台工業は上位の常連だった。昭和末期から平成初期にかけて関東の王者に君臨。
その頃は昭和61年に久我山が、昭和63年に茗渓が、平成2年に熊谷工業が全国制覇。
さらに日川高校の全盛期とも重なり、少なくとも関西に匹敵するレベルの高さだった。
また、秋田工業も優勝2回、準優勝1回と上位を占めて東日本勢の方が活躍することが多かった。
その頃の九州は大分舞鶴のみで持っていたが、その凋落と重なりベスト8に九州勢が残るのも
難しいような有様だった。
さて、その相模台工業だが、日川OBが監督に就任してチームを強くした。
本来なら相手にされないチームだが、人脈など利用して県内強豪、関東では日川、行田工など、
他地域では工大、新潟工などが胸を貸して強くなった。
母校の日川も関東大会で土を付けられたり、花園で初の8強進出した時も4強の常連だった
大分舞鶴相手に負けたが終盤まで食い下がったりした。同監督勇退時の会見でいくつか上がった
きっかけとなる試合の1つが、まさにこの試合で発展の契機になる。
スクラム押しまくり、平均体重で10kg近く上回りパワーでは負けていないはずだった。
にもかかわらず試合の大半を相模陣内で進められ、7割方大分舞鶴に試合のペースを握られた。
押し合いだと思っていたラグビーに「走る」ことの必要性を思い知らされた。以後の相模台工業は
走力も身につけて進化を深めていく。
しかし、ベスト8進出を果たした昭和50年代に強豪の一角に加わった時期と言っていいだろう。
それがさらに進化した契機が初の決勝進出となった昭和59年。夏合宿で力が落ちていた時期とはいえ
工大を50点差以上の大差で下したり、前年全国制覇した天理、準優勝の舞鶴に競り勝ち、さらに史上
最強といわれた日川を関東でも練習試合でも難なく退けた。そしてチームは花園で実力十分で決勝に進出。
FWを前面に出す攻撃ラグビーで完全に強豪校の仲間入りをした。
決勝では秋田工業に頼みのFWを抑え込まれて競り負けたが、以降も秋田工業には花園で3敗、
国体でも3敗と公式戦ではなかなか勝てない苦手となってしまった。