09/01/07 20:11:06 7a1QmqTX
続きを書いた。
なぜ長々と、「ネット言論」がうんこであることを述べたかといえば、君があっさりと通り抜けた「バランス」という
問題を論じるためだ。君は>>322で長々と(俺に比べれば短めだが)説明をした割には、ネット上の言論がいかに
して「バランス」に着地するか、いかなる内実のある説明も与えていないように俺には思えたからだ。
>リアル言論の場でも実際は賢者の呈示する体系的理論を全員が理解し賛同しているわけではないのだが
>互いに顔の見える現実世界では政治力学が働いてコンセンサス形成が進むのだ。
>しかしネット世界ではそうした政治力学が微弱であるため、特定の論点にこだわった言論が多く生き残る。
>結局は体系的理論もそうした特定の論点と折り合いをつけて最終的にコンセンサスが形成されていくのであって
>そうしてネット言論の場なりのバランスというものはとれていく。決してネット言論がバランスと無縁なのではない。
俺にはこの五行は、何が言いたいのかまったく理解できない(アンインストール)。だが、そのあとの部分も考慮し
強引に解釈してみると、
「現実世界でも、体系的な理論なんて機能してない。政治力学でバランスが取れてる」
「だからネットも現実もある意味変わらない」
「どちらもそれなりの力学でコンセンサスが形成される」 位の意見だろうか。
「体系的」という堅苦しい語がミスリーディングだったようだが、「体系的」というのはこの場合、別に学者や活動家と
いった「賢者」が構築する理論的体系のようなものを意味しているのではない。むしろ、そうした「賢者」が構築した
「体系」こそ、それが生まれた時の責任性を逃れ、ネット上で暴れまわっている妖怪であり、俺が批判したい対象だからだ。
君の理解とは反対に、むしろ、「賢者」による「体系的理論」をなぞり、それに応じて論調が画一化しやすいのは、
「ネット言論」の側に他ならない。ネット上で「賢者」となるのは、どこぞの漫画家であったり、保守派や革新派のいち
政治家であったり、時には内閣総理大臣であったりする。だが、それらに共通して言えることは、何がしかの
(時には非常に強い)発言力はあるが、現実世界の多様さや複雑さの前では、決定的影響力をもつにいたらず、
社会のもつ、侮れない「バランス」機能を前にすれば、うずもれてしまう人であるということだ。ネット言論は、そういう
人たちを、現実世界以上にクローズアップし、自分たちにとっての「賢者」に仕立て上げる。
俺の見るところ、ネット言論に、バランスをとる機能は存在しない。というのも、言論におけるバランスというものは、
そこに「責任」(先に述べたように「個」と「社会」という二重の意味での)というものが介在してくるときにのみ、はじめて
機能しうるからだ。よって、以下の君の見解については、俺は半分正しく、しかし半分誤っていると思う。
>そんなもの(賢者の体系)こそ観念的に過ぎる絵空事でしかないのかもしれない。むしろ1人の熟慮ではなく多数の
>議論の末に辿り着いた不格好で体系的でなく狭い視野しか持たないような結論のほうがよりリアルで有用なのかも
>しれない。
賢者の「体系」は、最初出てくるときは血の通った「責任」を帯びていたのだろう。ところが、ネット言論を媒介に広がり
だすと、それは「観念的に過ぎる絵空事」になり、もっともはなはだしくは、無記名者(名無しさん)による「コピペ」というかたち
で流通する。むしろ、「観念的に過ぎる絵空事」だからこそ、それは爆発的に広まることが出来る。逆に個々の人間の、
「責任」を伴う血の通った熟慮などというのは、まったくもって広く流通する望みはない。それを受け取る人間にも、広める
人間にも、なんの責任も介在しない以上、そこにはなんの「リアル」さも保存されない。もちろん、無責任な参加者たちを、
「動員」するには、たしかに「有用」だといえるだろうけども。