09/11/24 13:46:09 oLc3LZD3
言い方が難しいけども。
手掛かりには、可能性を収束させるものと拡散させるものがあると思うんだ。
赤字による死亡認定や探偵によるアリバイ保証、
逆に魔法や死者の徘徊といった虚偽の保証が前者にあたり、
赤字がないとか、探偵が見てない等、真偽どちらの可能性も許す手掛かりは後者にあたる。
で、一見、死んでいるように見えるけど、見間違いもありうる、
という論理自体は、何の問題もないと思う。
しかしそれは、まだ可能性を2つに増やしただけに過ぎなくて、
そこからまた「生きてる」に収束させるための推理が必要になると思う。
その手掛かりがなければ、描写を信じるしかない……という話なんじゃないかな。
たとえば半分の杭みたいな偽装死を示唆する小道具が発見されたり、
その人物が生きてないと説明がつかない事象が後で起こるとか。
解けるように作るってのは、可能性を収束できるように作るということ。
まあひぐらしみたいに、どれくらい絞れたらOKかに
作者と読者で温度差があることはままあるだろうし、
日本語って複数の解釈が生まれるのは当たり前だから、
何を積極的な手掛かりとして受けとっても良いんだと思うけど、
赤で確定してない、みたいな可能性を増やすタイプの手掛かりから
生きてると言うのは(間違いってことじゃなくて、論理的に)
不十分とか、飛躍してる、とは言えるんじゃなかろうか。