07/11/15 08:25:11 zo7JkZwR
ついでに>>69-70,90,102,105,107の哲学的にも大間違いな所ですが
ソシュールの言う言語の恣意性は言語のグローバル的な構造においての話で
ある体系においては必然化され、シニフィアンがシニフィエを内包します。
シニフィアンはある体系下では全て既に必然的にシーニュを形成している、と言ってもいいでしょう。
「欝少女」と「ヤンデレ」はある概念のシニフィアンであるとは言えますが
それに対して「欝少女」は好きだが「ヤンデレ」は嫌いだ、と言った場合は
既に体系において必然化された、別個のシニフィエをそれぞれ内包したシーニュとして言っている事になります。
「欝少女」「ヤンデレ」がメタ記号、シニフィエを一切持たない純粋なシニフィアンであるならば好悪は発生しません。
好悪、或いは何らかのシニフィエと切り離されている物がシニフィアンだからです。
逆に言えば、好悪が発生している段階で、それが音象徴であれ、文化影響であれ、成句過程であれ
なんらかの体系的作用により、すでにシニフィエを内包した一つのシーニュを形成していると言えます。