22/11/23 20:28:21.41 qSw0GL7+.net
>>160
>j^2は書き換えで出てきたわけではないぞw 望月新一がやったこと
>それをショルツェは「エッシャーの階段じゃん!」と云っているw
1)”書き換え”は、ショルツェ氏が自白していること
”radical simplifications”(>>153) = ”書き換え”を意味する
2)例えば
IUTが三つの要素、仮定 A,B,C → 結論 D
となったとして
ショルツェ氏は”simplifications”で
仮定 A',B',C' → 結論 D' → "having monodromy j^2, i.e., being inconsistent.">>153
を導く
3)問題は、”simplifications”なしの
元の”仮定 A,B,C → 結論 D”においてどうなるか?ってこと
4)勿論、ショルツェ氏の内心では、「IUTでも同じ」と主張しているのだろう(でなければ、単にヤクザの因縁だ)
ところが、数学では、このような”simplifications”による議論は、外道です
通常は許されない
例えば、ある数学者が、定義Aで議論しているのに
それを、”simplification”した定義A'に変えたら矛盾が起きるということを主張したら?
「なに言ってんだ! おまえは!」でしょうね
「勝手に定義書き換えたら、全く違う議論になるだろうがぁ!」
ですね
まあ、数学外では普通ですけどね、定義書き換えとか、ある理論を単純化して考えるとか議論するとか
特に、社会科学系では、普通です
例えば、”資本主義”に厳密な数学のような定義を与えても、
結局は「現実の世界で怒っている経済の状況が、定義された”資本主義”という概念と合っているか?」
が問題になります
しかし、数学ではそうではない
ある数学者が論文に書いた「仮定 A,B,C → 結論 D」は、まずは最大限尊重されるべき
そして、間違っているという主張は、まずは「仮定 A,B,C → 結論 D」のままで論ずべき
論文が700ページあって、長すぎるので、10ページに”simplification”したら
"having monodromy j^2, i.e., being inconsistent.">>153 だって?w
ショルツェ氏がフィールズ賞受賞者でなかったら、本来袋だたきでしょうねw