11/11/09 13:05:54.55 jU9ffkD10
>>32
これだな
>権藤正利
>温厚な性格で、後輩の江夏豊によれば「権藤さんが怒ったり怒鳴ったりしたのは一度も見たことがない」という。
1968年9月18日の対巨人戦で、先発ジーン・バッキーの王貞治への危険球紛いの投球により乱闘となり、
代わって登板した権藤はいきなりその王の後頭部に死球を与えてしまうが、巨人の川上哲治監督は
「権藤がそんなこと(故意の危険球)をするはずがない」と判断し、乱闘に飛び出した選手を呼び戻したほどである。
選手生活の最後に監督となった金田正泰とは確執が生じた。金田は彼の容貌について「サルでもタバコを吸うのか?」
と発言したりした[1]。権藤は、1973年11月23日、阪神のファン感謝デー終了後に甲子園球場内で金田に謝罪を求めたが
入れられなかったため、金田を殴打した[2]。
江夏豊は自伝で以下のように証言している[3]。8月31日、江夏のノーヒットノーラン達成後の内輪の祝いの席で
権藤から「監督にはもう我慢できない」と打ち明けられ、「後輩として手助けをやります」と返答。
ファン感謝デーの際に話し合うと決めた。当日、二人で監督室に赴き、その場にいたコーチやマネージャーに
「権藤さんが一対一で監督と話がしたいそうです」と伝えて席を外させた。江夏はドアの外で立ち、
ほどなく殴られた金田の悲鳴が響いた。人が来て自分を排除しようとしても動くまいとがんばった。
しばらくのち、中を覗いた江夏が「権藤さん、納得した?」と尋ねると権藤は「うん」と答えて二人でその場を立ち去ったという。
権藤にはリーグから厳重戒告処分、球団から謹慎処分が下されたが、権藤はすでに引退を決意していた。
12月12日に球団から自由契約を通告されて退団[4]。実働20年の連盟表彰を捨てての殴打事件であった[2]。