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(>>1のつづき)
特定の店で納豆が品切れであったことは「事実」だから、これを「ヤラセ」とはいわない。
だが、わざわざ納豆のない店をえらぶというのはみずからに「ヤラセ」をさせているのである。
いうなれば「自己ヤラセ」である。自己演出である。その自己演出がトイレットペーパー騒動の
原因であった。当時のテレビはその「偏向」を反省して視聴者に詫びた。
おにぎり、納豆のたぐいの品不足についての「自己ヤラセ」は2、3週間で終了したが、おなじような
「報道」はつづいている。たとえば、汚染をおそれて消費者が新米を買わず、去年のコメを大量に
買うようになった、という。それを深刻そうな表情で語る米穀商の主人の顔が大写しで画面にでる。
だが、ほんとにそうか。ウソではあるまいが、偏向している。
論より証拠、ネットをみるとことしのコメ、とりわけ銘柄米の値段は昨年より1割くらい高く、
品不足だという。スーパーをのぞいてみても、新米の売れ行きは好調のようである。古米、古々米を
大量に買う神経症的な消費者もどこかにいるのだろうが、それは例外というものである。
その例外的な「事実」を強調して、あたかも世相であるかのごとくにいうのはペテンである。
世に「風評被害」という。モノが売れない。旅行者が減少した。会社が倒産した。すべて
「風評被害」だ、という。たしかにそうだろう。しかし、「被害者」がいるなら、かならず
「加害者」がいるはずである。某県の農作物がアブナイといったたぐいの「風評」はべつだん
ふわふわと「風」がはこんできたものではない。はっきりいって、あの「風評」を「報道」したのは
テレビという怪物である。水がなくなった、とレポーターがいうから大衆はあわてて水を
買ったのである。テレビこそが「風評加害者」なのである。すくなくとも共同正犯なのである。
それなのに、火元をどこかに吹いている「風」のセイにしてテレビは涼しい顔をしている。
そして毎日アナウンサー、レポーター諸氏が「こちら、ごらんください」と「風評」のタネを
バラまいている。半世紀ちかくたっているのに「テレビ報道」というのはちっとも進歩もせず、
懲りもしないものだ、と嘆息してしまうのである。(かとう ひでとし)(以上、抜粋)