11/10/29 00:33:42.10 kiucj18H0
どの文化でも、家族という集団は、利益追求のための機能的集団(ゲゼルシャフト)ではなくて、愛の共同体(ゲマインシャフト)である。
ただ、多くの文化では、子供たちは、ゲマインシャフトから追い出されて、ゲゼルシャフトの中で大人として成熟していくのに対して、
日本人は、いつまでもゲマインシャフトの温情主義的なぬくもりの中に留まろうとする。戦前の日本政府は、国“家”を、天皇を家長とする家族に喩えた。
戦後、国家のイデオロギーが崩壊すると、日本人は、会社に家庭的なゲマインシャフトを求めた。
そして、人見知りする幼児のように、日本人は、共同体内部では親密な人間関係を築きながら、よそ者に対しては、引っ込み思案な態度を示す。
(略)
日本文化の幼児性を、もっと直截に「甘え」という言葉で指摘したのが、土居健郎の『「甘え」の構造』である。
もちろん、甘えるという現象は、日本人だけに見られるわけではない。どこの国でも、幼児は母親に甘えるものだ。
だが、日本では、幼児がいつまでも母親に甘え続けることができるのに対して、多くの国では、子供たちは、父親によって、精神的な乳離れを強要される。
では、なぜ日本人は、母親に甘え続けることが許されるのだろうか。なぜ、日本の文化は幼児的な段階に留まっているのか。
それは、日本では、母権社会から父権社会への転換である男性革命が、きわめて不十分であったからである。
(略)
人は、死ねば土に帰る。死ぬということは、母なる大地の懐に戻るということを意味している。
日本の特攻隊員が死ぬ直前に叫んだ言葉は、「天皇陛下万歳」ではなく、「お母さん」だった。
勇ましい武士も、死ぬ直前に口にした言葉が「おっか(お母さまのこと)」だったりする。
自ら死を選んだサムライは、その深層心理において、胎内回帰願望によって動機付けられていた。こ
のように、一見すると勇ましそうな日本人の死の美学も、実はきわめて幼児的な欲動に基づいているのである。
なぜ日本人は幼児的なのか
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