11/10/24 13:07:08.33 gndZfIZH0
>>336続き
「よく聞けよ。政事は民を本としなければならない。
その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」
天皇は、ニッコリされて、こう申されました。
そのころ、諸国より
「宮殿は破れているのに、民は富み、
道にものを置き忘れても拾っていく者もありません。
もしこの時に、税を献じ、宮殿を修理させていただかないと、
かえって天罰を蒙ります」
との申し出が頻頻とあるようになりました。
それでも、天皇は引き続きさらに三年間、
税を献ずることをお聞き届けになりませんでした。
六年の歳月がすぎ、やっと税を課し、宮殿の修理をお許しになりました。
その時の民の有様を「日本書紀」は次のように生き生きと伝えている。
「民、うながされずして材を運び簣(こ)を負い、
日夜をいとわず力を尽くして争いを作る。
いまだ幾ばくを経ずして宮殿ことごとく成りぬ。
故に今に聖帝(ひじりのみかど)と称し奉る。
みかど崩御ののちは、和泉国の百舌鳥野のみささぎに葬し奉る」
以上、<聖帝・仁徳天皇 民のかまどは賑いにけり>