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・2冊の従軍手帳がある。
手のひら大の黒革の表紙。錦米次郎が、癖のある豆粒のような字をびっしりと書き込んでいる。
1939年分は合計98ページ、約6千行に及ぶ。
南京事件後の39年の元日、「南京で思い出し難いのは難民共のことだ」と記している。
その後の4行は黒塗りされ、三重大教授の尾西康充(44)は「帰国の際、憲兵の検閲を
受けて削除された」とみる。
黒塗りの後はこう続く。「世界大戦の時、巴里(ぱり)には処女は一人もいないと本で
読んだことがあるが、自分らのいた南京もそういえないことはない」「自分は正月を
迎えるごとに南京を思い出すだろう。それほど南京の街町は自分の脳裏に焼き付けている」
南京攻略戦は、錦が所属した陸軍16師団などが中心となった。16師団長は南京警備
司令官として「峻烈(しゅんれつ)な残敵掃討」を命じた。
錦の軍隊手帳では「37年12月2日から12日まで南京攻略戦、13日入城、14日城内掃討戦、
16、17日城外掃討戦。18日から翌年1月22日まで南京付近の警備」となっている。
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尾西によると、南京事件を詩に読んだのは、日本人では錦1人しかいない。
例えば、副題を「わが軍隊手帳」とした「南京戦記」「南京港・下関にて」(85年2月)。
捕虜の扱いなどを定めたジュネーブ条約に明らかに違反する行為を、南京で見聞きしたことを
元に描いた。
「彼ら(中国の敗残兵)は、みな目かくしをされて壕(ほり)の前に坐(すわ)らされた。
管理軽重の下士官が内地から腰に吊(つ)り下げてきた、日本刀をひきぬいてふりかぶった。
捕虜の中国兵の首めがけて彼の日本刀がふり下ろされた」
また、「風琴奏鳴曲」(56年2月)では「略奪が終わった。出発だ、火をつけよう」「物陰に女と
子供がいた。(中略)仲間はどやどやと踏み込み、次ぎつぎにおかした。最後の奴(やつ)が
終わった。さッとのびた銃剣が子供と女を突き刺した」「おれたちは死体に火をかけた」などと、
南京事件を連想させる場面を描いた。(>>2-10につづく)
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