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戦前から、日本共産党のもとに多くの在日朝鮮人が集っていた。
例えば、共産党系の労働組合の全協(日本労働組合全国協議会)は、
最盛時の1931年(昭和6年)ごろ、組合員数は3万人だったが、
うち3割を朝鮮人が占めていた。
1945年(昭和20年)、敗戦の年の10月、徳田球一ら共産党幹部が、府中刑務所を出獄した。
その際、
<歓迎 出獄戦士 万歳>
の幔幕を掲げ、熱狂的に出迎えたのは、数多くの朝鮮人だった。
その後、催された歓迎大会の会場を設営したのもまた朝鮮人党員である。
彼らが待ちわびていたのは、獄中15年の不屈の闘士、金天海であった。金天海は在日朝鮮人から
圧倒的な支持を集めていた。
その年の11月、共産党は再建の第一歩として、第4回党大会を準備するため、
全国協議会を開催する。全国から300人の代議員が東京・代々木の本部に集まり、行動綱領草案、規約草案、
日本共産党の当面の政策を採択した。さらに、1カ月以内に第4回党大会を開催することも決定する。
その準備委員に選任されたのが、徳田球一、志賀義雄、袴田里見、金天海、宮本顕治、黒木重徳、神山茂夫の
7人だった。この名簿順位は、当時の党内ランクを示している。