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◆韓国「竹島不法占拠」の歴史 日本人の死傷者44人◆
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※以下、記事大幅省略
1952年1月、韓国の李承晩大統領が一方的に軍事境界線(いわゆる李承晩ライン)を引き、
竹島の領有を宣言した。
それ以前に韓国は、サンフランシスコ平和条約の起草に際し、
アメリカに「日本が放棄する領土に竹島と対馬を含めよ」と要求していたが、
アメリカ側は「これらの島が朝鮮の一部として取り扱われたことは一度もない」と却下。
そのため、韓国は52年4月のサンフランシスコ平和条約発効に先立ち、
国際法を無視し、一方的に領有を宣言したのである。
当然のことながら日本はこれに反発し、
53年6月に島根県は隠岐島漁業協同組合連合会に共同漁業権の免許を与え、
島根県と海上保安庁が共同で竹島を調査し、韓国人6名を退去させ、領土標識を建てた。
しかし、韓国は54年に竹島に海洋警察を上陸させ、不法占拠を開始。
それと前後して、竹島近海で操業している日本漁船に対して、
銃撃や拿捕を繰り返すようになったのだ。
まず53年2月、韓国・済州島付近で操業していた第一大邦丸が韓国海軍に銃撃・拿捕され
漁労長が撃たれて死亡する事件が起きた。
同年7月には、海上保安庁の巡視船が竹島に上陸していた韓国の官憲から発砲され、船体に被弾した。
日韓漁業協議会の調べでは、
65年に日韓基本条約と漁業協定が締結されるまでに、拿捕された日本の漁船は328隻、
抑留された船員は3929人、死傷者は44人にのぼる。損害額は当時の金額で90億円を超えたとされている。