11/08/08 19:01:11.13 yDM+kOiw0
>>861
嵯峨天皇が、平安京の西側(右京)を唐の首都である「長安」、
東側(左京)を唐の副都である「洛陽」と名付けた。
しかし「長安」である右京は居住に適さない湿地が多かったことなどから平安時代の後半には既に廃れ、
市街地は「洛陽」である左京だけとなった。このため京都を「洛陽」と呼ぶようになった。
そのため、京都へ上ることは「上洛」とも称され、広義においては現在の「上京」と同様の意味で用いられていた。
対義語に、下洛(げらく)がある。下洛とは、京都を離れることである。
また、上洛という煌びやかイメージとは逆に、落ちぶれた有様を喩えることもある。