11/07/14 18:43:25.45 0
・朝から気が重い。靖国神社の「みたままつり」に行かなければならないからだ。
ゼミの一環であり、この行事を行き先に選んだのは学生たちである。ネットで検索したら見つかった、
ちょうどお祭りをやっているみたいだから、という理由であった。案の定というべきか、学生たちは
靖国について何も知らなかった。
10年ほど前、敬愛するある先生から、やはりこの種の無知について聞いたことがある。
その無知の状態のところに(当時流行っていた)復古調のナショナリズム言説が注入されると、
学生が簡単に感化されて困ると嘆いておられたのだった。
いまのゼミ生のようすをみていると、それとも少しちがう。そのような偏った知識さえもない。
修辞ではなく、文字どおり、なんにも知らない。知らないという自覚もないし、知らないことが
まずいことだという意識もうすい。無邪気に無知なのだ。
靖国に行きたいと学生たちが言いだしたとき、ぼくはひとつ条件を出した。あらかじめ靖国に
ついて勉強していくのなら、ということであった。当然といえば当然の話である。
そして、学生たちの名誉のためにいっておけば、かれらはこの2週間、よく勉強した。本を探し、
読み、発表しあい、いくつかのドキュメンターを見た。たかだか2週間の勉強で得られる知識など
しれているし、付け焼き刃であることは否めない。じっさい、この問題がじぶんたちにダイレクトに
つながっているという感覚をもつことはできていないだろう。それでも、かれらの努力は
認められてよいとおもう。
それにまた、無知の責任をすべて学生に押しつけるのはまちがっている。こうした事柄について
かれらに語ることをしてこなかったのは、大人のほうだからだ。見ず語らず考えず。学生たちの
無知は、現代の日本の社会のあり方のひとつの帰結である。
いっぽう、無知であることは、靖国神社の側からみれば、好都合でもある。
「みたままつり」を宣伝するポスターをみれば、一目瞭然だ。このポスターは駅構内など都内の
あちこちで見ることができる。(>>2-10につづく)
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