11/07/14 18:43:38.09 0
(>>1のつづき)
このポスターには、浴衣を着た若い女性がこちらを向いてにっこり微笑む写真が大きく
あしらわれている。あたかも、「ねぶた」か「竿燈」のように、観光化された伝統的な夏祭りの
ひとつであるかのような描かれ方だ。じっさい「ねぶた」の奉納が催されるし、多数の屋台が
出たりもする。何も知らなければ、無邪気に「夏祭り」を愉しむ気分でやってくるであろう。
毎年30万の人出があるそうだ。
けれども、こうした伝統的な神社の「夏祭り」をおもわせるような親しみやすさと愉しさの演出は、
けっして靖国神社の変質を意味しているのではない。むしろ逆だ。くだんのポスターを見ても、
それは明白である。靖国側の主張は明確かつ強烈に折り込まれている。写真に添えられた
「英霊(みたま)に感謝と祈りの夏祭り」というコピーを見ればよい。
いうまでもなく、「みたま」とは「英霊」、つまり帝国日本のために亡くなったひとびとのことである。
靖国神社とは、かれらを祀り慰霊するための「国営神社」であり、同時に、帝国主義のために
「国民」の生命を動員することを奨励し正当化するための国家宗教装置であり、それゆえに
蹂躙された側にとっては侵略の象徴でもあった。「みたままつり」のポスターに添えられたコピーは、
そのような戦前・戦中期における靖国の性格が、現在においてもまったく変更されていないことを
示している。いや、それは絶対に変更されえない性質のものなのだ。なぜなら、それこそが靖国神社の
存在理由なのだから。
もちろん、靖国神社をとりまく社会は、かつてとは大きく異なっている。そのなかで、いかにして
靖国の本質を「護持」していくか。そのために戦後の靖国神社がとった戦略は、しばしばいわれるように、
国家神道をあたかも伝統的な神道と地続きであるかのように偽装することであった。「みたままつり」とは、
そのためのひとつの仕掛けと理解するほかないだろう。
さて、そんなわけで、重いものをかかえるような気持ちで、これから靖国神社に出かけていく。
願わくは、この重さの幾ばくかでも、学生たちと共有できるようになってくれることを。(以上、一部略)