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>>2の続き
この言葉に、敗戦直後の1946年に、だまされた国民にも戦争責任があると断じた映画監督、
伊丹万作のエッセー「戦争責任者の問題」を思い出した。伊丹は人情味あふれる「無法松の一生」の
脚本を書く一方で、人間の本質を突く社会評論を残している。
「『だまされていた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。
いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいない」(ちくま学芸文庫「伊丹万作エッセイ集」所収)
「安全神話」を吹聴した国や電力会社が厳しく批判されるのは当然だが、だまされた国民の責任からも
目を背けてはならないと思う。国民は政治を通じて、電源三法で多額の交付金を地方に配ってきた。
その構造と安全神話が、原発周辺住民に危険と隣り合わせの生活を強いたからだ。
◇地方犠牲にした豊かさが幸せか
濱さんは賛否で割れた漁協が、海で遭難した仲間の捜索で協力したことがあったと教えてくれた。
遺体は1週間後に見つかった。「漁師はな、『板の一枚下地獄』と言うんや。
そんな所で働くもんは皆仲良くせなあかん。町長、お前にこの気持ちが分かるか」。
この言葉で町長は誘致推進を取りやめたという。
原発の建設候補地だった場所は海に面した緑の岬だ。岬を見渡す海岸に立ち海を望んだ。
地方を犠牲にして原発に依存し、豊かさにひたることが幸せなのか--。
目指すべき社会の姿は、はっきりしていると思う。
毎日新聞 2011年6月21日 東京朝刊
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