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東日本大震災から3日後の3月14日午前、東京電力福島第1原発3号機原子炉建屋で
水素爆発が起きた。菅直人首相ら政府首脳の協議は大激論となった。
「避難指示を(半径20キロから)30キロ圏内まで広げるべきです」。
内閣府原子力安全委員会側からの提案に、枝野幸男官房長官らは
「30キロに拡大するのはいいが、屋内退避にとどめた方がいい」と反論した。
「30キロ避難」は大規模な避難計画の立案が必要になり、混乱する懸念があった。
大勢の住民が避難中に再び爆発するリスクも考慮した。
首相は枝野長官の主張を受け入れ、15日午前、「20~30キロ屋内退避」を発表した。
「屋内退避はせいぜい数日で終わる」。だが、政府高官の希望的観測は後に覆される。
「SPEEDIを走らせてはどうか」。16日、福山哲郎官房副長官は内閣官房参与の
小佐古敏荘(こさこ・としそう)東大大学院教授から助言を受けた。原発事故などの際、
放射性物質の放出量と風向きから拡散地域と累積線量を予測。
住民避難の切り札となるシステムだが、停電で初期データが入力されず、役立っていなかった。
原発の状態は悪化の一途をたどる一方、官邸は放射能汚染地域の全容を把握できずにいた。
「現在の放射線量から逆算して予測図を出してほしい」。枝野長官はすぐに
班目(まだらめ)春樹・内閣府原子力安全委員長に要請したが、報告は震災から約2週間後。
官邸に届いた「汚染図」は30キロ圏内の同心円から変形してアメーバ状に広がり、
北西には大部分が30キロ圏外の福島県飯舘村のほぼ全域をのみ込んでいた。
飯舘村の放射線量の高さは官邸にも早くから届いていたが、「点から面」に広がった衝撃は大きかった。
原発の爆発リスクを否定できないまま、次の一手を打てず、屋内退避はずるずると続いた。
>>2へ続く