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学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.12」(前編) 鈴木猛夫
前号まで3回続けて戦後の栄養改善運動を積極的に推進した元厚生省栄養課長の
大磯敏雄氏の食哲学について述べてきた。氏は戦後、米の消費が落ち輸入小麦が
急増したことや小麦戦略についてどのように考えているのであろうか。
終戦直後の食糧難時代、学校給食のスタートは困難の連続だった。昭和20年、
日本に赴任したGHQの保健衛生及び福祉担当のサムズ大佐は欠食児童救済のため
文部、大蔵、農林,厚生の各省の担当者を招集し、学校給食用の食糧確保のための
協議を繰り返した。しかし各省とも食糧難を理由にこの計画には気乗り薄であった。
大磯氏の著書「飽食の中の混迷」(昭和55年,医歯薬出版)によると大佐はこの席上
「この戦争の犠牲者となって気の毒な生活を続けている日本の学童、ことに大きな
都市にいるものになんとか学校で一食を与えたいものだ。それには、日本の習慣に
従って米のご飯と味噌汁を与えたいが、目下のところ農林省は、どうしてもその物資の
都合がつかぬといいつづけてきている」として学校給食開始の困難であることを述べている。
更に「後年、学校給食に小麦のパンが使われ、牛乳飲用が慣行されているのは、
当初よりのアメリカ側の陰謀で、余った小麦粉を売りつける手段に使ったのだと、
さも知ったような言辞を弄する者が現れたが,これは全くの嘘で、学校給食のそもそもの
起こりは、この筆者の眼で見、身体を使っての体験であって、最初は、米飯と味噌汁を
基調にしようと考えたサムズ大佐の計画も、米なし、味噌なしの前にあえなくつぶれて
しまったことを忘れないで欲しい」と述べ「言辞を弄する者」に対し苦言を呈している。