11/02/21 12:21:59.21 0 BE:909420555-PLT(12066)
日本政治の病、いよいよ篤(あつ)しの感が深い。
政策の立案決定や遂行よりも、権力の争奪をめぐる永田町のなかの抗争、いわゆる政局にかまける病である。
民主党の小沢一郎元代表に近い議員16人が同党の会派からの離脱を表明し、党内では菅直人首相の退陣論が公然と語られ始めた。
これに対し首相は衆院解散に含みを持たせ、対抗する。
新年度予算案審議の真っ最中である。予算関連法案の成否はきわどい。社会保障と税の一体改革に目鼻をつける作業は待ったなしだ。
そんな時期に、与野党あげて「政局」政治に没頭している余裕は、いまの日本にはない。
「小沢」か、「脱小沢」か。20年来の日本政治を枠づけてきた対立構図が、今回の局面の底流にも横たわる。
これを清算することなしに、政治の病が癒えるとは考えにくい。
小沢氏流の政治とは何かを、改めて見つめ直さなければならない。
■めざすは「権力集中」
小沢政治を解剖する道具とすべき言葉は、やはり「権力」だろう。
小沢氏は「政治改革」を主導した。何のためか。1993年に出した「日本改造計画」冒頭に、「迷惑な『指導力の欠如』」という項目がある。
それによれば、日本は「小さな脳しか持たない恐竜」である。脳、つまり指導者の指示ではなく、手足やしっぽが互いに調整し、一挙手一投足を決める。
それが日本政治だというのだ。
湾岸危機の際、自衛隊海外派遣を、政府内の異論や野党の抵抗に阻まれていた。
意思決定の仕組みを変え、権力を最高責任者に「民主主義的に集中」しなければならないと説く。何より迅速な「決断」を可能にすることが、小沢氏の政治改革だった。(>>2へ続く)
asahi.com 2011年2月21日(月)付
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