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古代都市ペトラの遺跡、衛星画像とドローンで発見 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
URLリンク(natgeo.nikkeibp.co.jp)
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どこからでも見える場所に、巨大遺跡が存在していた。学術誌「Bulletin of the American Schools of Oriental Research」にこのほど掲載された調査結果によれば、ヨルダンにある世界遺産ペトラに未知の遺構があったという。
論文を発表したのは、ナショナル ジオグラフィック協会フェローのサラ・パーカック氏と、米国海外調査センター評議会(Council of American Overseas Research Centers)事務局長のクリストファー・タトル氏。2人の考古学者は、まず高解像度の衛星画像を撮影し、次いでドローンでも上空から写真撮影した。さらに地上調査で遺構の場所を確認し、記録していった。(参考記事:「宇宙考古学で遺跡保護を、TED受賞者が呼びかけ」、「略奪される歴史」)
報告によれば、遺跡の長さはオリンピックで使われる50メートル競泳プールとほぼ同じで、幅は2倍近くある。古代都市の中心から南にわずか約800メートルの地点に横たわっていた。
現在のヨルダン南部にあった隊商の街ペトラは、ナバテア人と呼ばれるアラブ民族の中心都市として機能していた。紀元前2世紀の中頃に成立したと考えられている。東ローマ帝国による支配が終わった紀元7世紀には、事実上放棄された。
この地の赤い砂岩から作られた象徴的な建造物群を見ようとやってくる観光客は、毎年数十万人に上る。
ペトラ遺跡公園の広さは約264平方キロに及ぶが、そのうち都市の中心部はわずか6平方キロの範囲しかない。
古代都市ペトラの郊外に当たる北側や南側のエリアでは、探検家ヨハン・ブルクハルトが1812年に足を踏み入れて以来、盛んに調査が行われてきた。一方、都市の中心部周辺は調査の途上であり、日々新しい発見がある。今回の遺跡発見もその証だ。(参考記事:「15歳少年のマヤ遺跡「発見」は間違いと専門家」)
ペトラで最初の施設か
新たに見つかった遺構は、南北約56メートル×東西49メートルの水平な壇。内側に一回り小さな壇が置かれ、当初は敷石で舗装されていた。内側の壇は東側に柱が一列に並び、巨大な階段の最上段を飾っていた。
内側の壇上には、西に面した辺の中央付近に8.5メートル×8.5メートルの小さな建造物があり、階段のある東側に向かって開いている。
比較的小さな建造物を壇上に載せ、巨大な階段から出入りするという大規模な遺構は、ペトラでは分かっている限り他に例がない。儀式目的の公共施設だった可能性が高く、何かを広く人々に見せるという特定の目的で高台に造られた場所としては、ペトラで見つかっている中では「修道院」に次ぐ第2の規模かもしれない。(参考記事:「彫り刻まれた柱頭、ヨルダンのペトラ遺跡」)
この遺跡の発掘はまだ行われていないが、地表で見つかった陶器には紀元前2世紀半ばの物があり、ナバテア人が公共の建物を造り始めた最初の事業でこの建造物ができた可能性を示している。
「宝物殿」や「修道院」といった象徴的な遺跡に代表されるように、ペトラで今日見られる遺跡の多くは、紀元前1世紀末~紀元2世紀という2度目の全盛期に建てられた。その時点で街は建設から1世紀かそれ以上が経過していたと、タトル氏は指摘する。つまり、今回発見された公共施設とみられるユニークな遺跡は、都市建設の初期に造られた可能性がある。(参考記事:「古代都市ペトラ、重要だった冬至の太陽」)
タトル氏はこの発見について述べる中で、衛星やドローンによる撮影を歓迎した。これにより考古学者は上空から広範囲を見渡すことができ、古代の建造物のかすかな痕跡も特定できるほか、歴史上の複数の遺跡が地域内で互いにどう関係しているかも解明できるからだ。(参考記事:「古代都市パルミラ、繁栄の謎を解明か」)
「ペトラで行われてきた過去200年にわたる調査で、この遺跡の存在に誰も気づかなかったわけはないと思います。しかし、体系的な調査や論文発表までには至らなかったのです」とタトル氏は話す。「私は20年以上ペトラ遺跡を研究する中で、ここに何かあることは分かっていましたが、今は間違いなく『発見した』と言うことができます」